その夜、自身のブログに記した言葉は、瞬く間に広がり、メディアでも報じられた。

「ご報告致します。

 突然ですが、私、浅田真央は、フィギュアスケート選手として終える決断を致しました」

 2017年4月10日、浅田は競技生活から退くことを明らかにした。それを受けて、号外を出す新聞社もあった。

 記者会見は翌々日の12日に開かれた。

 東京都内の会場には、予定開始時刻の1時間前から大勢の記者やカメラなど取材者が詰めかけた。海外の記者も含め、最終的には約430人に上った。

「もういいんじゃないかなと思いました」

「本日はお忙しい中、お集まりいただき、ありがとうございます。私、浅田真央は選手生活を終える決断をいたしました。

 長い選手生活でしたがたくさんの山がありました。でもその山を乗り越えてこられたのも、たくさんのファンの方の応援があったからだと思います」

 第一声の挨拶とともに始まった会見で、引退を決めたきっかけについて尋ねられると、こう答えた。

「(2014年のソチ五輪後、1年間の休養を挟んだあと)復帰してから、いい形でスタートできました。でも、そこから試合に出るにつれて『今のスケート界についていけるのかな』という思いが強くなったり、体の部分で復帰前よりも少し辛い部分が多くなりました。

 なんとか1シーズンは乗り切れたのですが、2シーズン目からは『なんとか、なんとか頑張ろう』という気持ちでやってきました。でも最後の全日本選手権を終えて、もういいんじゃないかなと思いました」

「何も、悔いはありません」

 最後となった全日本選手権は2016年12月のこと。14度目の出場で初めての二けた順位となる12位で終えていた。

 復帰するとき、2018年の平昌五輪を目指すと目標を掲げていたから、志半ばで退くことになった。

 でも、浅田は晴れやかだった。どこまでも、笑顔だった。

 その理由は、浅田自身の言葉にあった。

「何も、悔いはありません」

あらゆる面で努力を惜しまず。

 あらためて足跡をたどれば、トップスケーターへと上り詰め、長く第一線で戦うことができた理由は、努力にほかならないことが分かる。

 小学生時代、周囲も認めるほど練習に熱心であったし、その後も数々の選手や指導者が、手抜きのない練習について語ってきた。二十歳を過ぎたあとには、1日に5部練習を実行することもあったという。

 しかも、ソチ五輪のシーズンが終わったあとの休養を除けば、空白を生まずに競技を続行してきてのことだ。

「体力も気力も全部出し切った」

 会見では、こうも語った。

 悔いなく退くことができる心境に達しえたのは、あらゆる面で努力を惜しまず重ねてきたからこそだったろう。

 また、会見ではこのようなことも思わずにいられなかった。

 アスリートは結果を、成績を出すことを目標にする。でも目指すもの、重要なことはそれだけではない。結果を目指し、自身の成長を期して取り組むその過程に価値がある。

 思うような成績が出ず、目標とする結果に達しない時期も何度もあった。それでも悔いなく競技生活から離れることができたのも、真摯に時間を過ごしてきたからにほかならなかった。

どのような質問に対しても、誠実に。

 会見では、もう1つ、浅田が過ごしてきた時間の中身を思わせる要素があった。

 長い時間にわたる会見中、用意したメモの類に目を通すこともなく、思わぬ角度から来るものも含め、どのような質問に対しても、気持ちを誠実に言葉に置き換え、伝えていたことだった。

 中学生で脚光を浴びた頃、記者会見やいわゆる「囲み取材」では、まだ言葉が足りないところもあったし、舌足らずに近い面があった。歳相応であった。中学生なのだから、当たり前のことだ。

 あれから10年以上のときを経た会見での姿は、年齢をただ重ねたからばかりではなかった。真剣にものごとに向き合ってきたからこそ磨かれた、受け答えにほかならなかった。

 昨今、記者会見とは名ばかりの、形式だけで誠実に伝える姿勢のない類が珍しくないことを考えれば、あのときの会見で見せた姿勢は、より輝きを増す。

 それも含め、努力の人、真剣な時間を過ごしてきた人、という印象を残す会見であった。

 それまで大会などで何度も言葉にしたのと同様、引退会見でもファンをはじめ支えてきてくれた人々への感謝を語った浅田はのちに、「今まで応援して下さった方々への感謝を込めて」、アイスショー「サンクスツアー」を開始。

 一貫した姿勢もまた、浅田真央らしくあった。

(「フィギュアスケートPRESS」松原孝臣 = 文)