動かない。動こうとしない。5分経過。10分経過。2人はリング上で向かい合ったまま、動かない。コーナーに近いところには藤田和之、リングの中央近くには潮崎豪が立って、互いに鋭い視線を送っていた。だが、2人とも動かない。

 15分経過。藤田がゆっくりと歩いてコーナーを移動したが、触れ合うことはなかった。

 にらみ合いは続いた。緊張した空気が観客のいない後楽園ホールを包んでいた。30分経過。

 31分過ぎのファースト・コンタクト。藤田がタックルで潮崎を押し倒した。藤田は上四方固めで強引に押さえこみに入り、ケサ固めといった地味な攻撃で潮崎を締め上げる。

「(ロープ)エスケープするなよ」(藤田)

 こう言われては、潮崎は意地でもロープに逃げることはできない。そこには、まるで、かつて新日本プロレスの道場で行われていたようなスパーリングの雰囲気があったが、藤田の強烈な締め上げに潮崎の口の中はもう切れて赤く血に染まっていた。

 グラウンドは藤田の優位が続いた。このまま数分で藤田が一方的に勝って試合が終わってしまっても不思議ではない、とも感じられたが――。

メインの前の3試合は通常とほぼ同じで……。

 3月29日、後楽園ホール。東京都内での新型コロナウイルス(COVID-19)感染者が連日増え続ける中、潮崎と藤田のGHCヘビー級選手権試合は無観客で行われた。

 後楽園ホールのリングサイドにはパイプイスは並べられず、全部で約50人程度の関係者がそれを見守るだけだった。

 本来、この試合は3月8日に横浜文化体育館で行われるはずだったが、大会自体がコロナウイルスによる自粛で中止になったものだった。

 29日は「ノアLIVEマッチ」として観客を入れずに全4試合が組まれたが、メインの前の3試合は、選手たちは通常とほぼ同じように動いた。

 もちろん、違和感を十分に覚えていただろうが、そう動こうと努めていた。

 逆に藤田と潮崎は静寂の中、30分以上も接触することなくにらみ合ったことで、無観客試合を強く印象付けた。カメラマンが移動する足音すら大きく聞こえる静けさだった。

藤田はラリアットから逃げなかった。

 藤田が力任せに攻めて、王者の潮崎が耐える展開だった。もちろん、潮崎が跳ねのけなければ、3カウントが入ってしまう。

 40分が過ぎて、道場でのスパーリングのような展開は様相を変える。藤田は場外戦で潮崎を捕まえると無観客の後楽園ホールを引きずり回した。

 エレベーター前まで行き、5階のエレベーターのボタンを押した。そのドアはうまく開かなかったが、午前中から雪の舞っていた外まで連れ出そうともした。

 さらに階段を上がって6階まで行き、藤田はバルコニーでも潮崎を突き落としかねない勢いだった。

 7分にも及んだ場外戦から戦いは再びリング内に戻った。

 藤田の逆エビ固め。潮崎のブレーンバスター、ショルダーアタック。藤田のスリーパーホールド。チョップと張り手の応酬。藤田のパワーボムと容赦ない顔面蹴り。潮崎のラリアット。

 60分の時間切れも意識した57分47秒、潮崎が藤田を10発目のラリアットで押さえこんだ。

 藤田はラリアットから逃げなかった。

「みんながいるからノアだと」

「アイ アム ノア」とテレビの向こうのファンに叫んだ潮崎は「負けられなかった。負けるわけにはいかなかった」と口にした。

「今まで味わったことのない緊張感ある試合。藤田和之は藤田和之。相手の威圧感に耐えるしかなかった。体力も奪い取られた。お客さんがひとりもいない状況で、みんなが画面の向こうで見てくれていると思ったら負けられないでしょう。防衛戦以上に得るものが多い試合だった。これがノアを背負い、ノアを守る試合。

 でも見に来てくれるお客さんがいないとね。みんながいるからノアだと、それを実感しましたよ。気づくことができてよかった。違和感だらけの試合でした。これはみんな感じたことだと思う。今はこの状況を打破してみんなの前で試合がしたい」

あらゆるスポーツイベントが崩壊の危機に。

 コロナウイルスの猛威は留まることを知らない。東京ではロックダウンという名の都市封鎖も現実味のある話になっている。

 コロナウイルスによる死者が1万人を超えたイタリアや、約6500人のスペイン、約2300人のフランス。ミラノ、マドリード、パリのような大都市ばかりでなく、封鎖都市、外出禁止地域は増えて、その期間は延長を余儀なくされている。

 そんな世界の重大危機の中でプロレスでもないだろうというかもしれない。サッカーでもないだろう。野球でもないだろう、と。

 しかし、試合が全く行えないことはサッカーの潤沢な資金があると言われているクラブでさえ経営を圧迫している。リオネル・メッシらを擁するFCバルセロナやクリスティアーノ・ロナウドの所属するユベントスFCも選手の報酬の減額に踏み切るようだ。

 ドイツ・ブンデスリーガではこのまま試合を再開できなければ、20くらいのクラブが潰れるとも言われている。せめて、無観客試合でもいいから、試合をしないと欧州各国で大人気のサッカーでさえ崩壊の危機に直面しているのだ。

 今シーズンの欧州サッカーはリーグ戦を再開できずにこのまま打ち切りになってしまうことが濃厚だ。稼ぎ頭のチャンピオンズリーグでさえ優勝チームなしでシーズンを終えることになるかもしれない。

いまだに無観客試合も行わない新日本プロレス。

 オリンピックが延期になった日本だって同じだ。Jリーグだって、プロ野球だってそうだ。無観客ででも試合をスタートしなければ、裕福な球団しか生き残れない。

 プロレスだってそうだ。新日本プロレスは2月26日の沖縄での試合以来、1つも試合をしていない。そして、すでに4月11日の相模原までは中止を発表済みだ。そして、その先はいつから始められるかも不透明だ。

 コロナウイルスが確かにデリケートな課題であることは確かだが、「新日本プロレスワールド」という動画配信のサービスを持っているにも関わらず、いまだに無観客試合も行わないから不思議だ。

 全日本プロレスはできる範囲で無観客と通常開催を柔軟に使い分けてこの危機に対応していく姿勢を示している。

ネット配信の後楽園ホール、そして野外や道場も。

 配信手段を持たない団体やプロモーションは中止か強行しかないわけだが、あえて強行しても、みんな不安を抱えているから実際の集客は難しい。

 無観客でのテレビあるいはインターネット配信だけを考えれば、後楽園ホールが一番身近で整った環境にある。

 ただ、野外を想定するのもアリだろう。かつての田園コロシアムのような所があったらと思う。最近は減ったが、プロレスは暖かい時期は駐車場や広場、空き地、普通の野球場で試合を行ってきた。多摩川の河川敷なども候補としては残る。雪のなくなったスキー場だってある。ただ、人が自由に大勢集まってしまう場所は避けなければいけないから、それは考えなくてはいけない。

 じゃあ、手っ取り早く使える道場はどうかとなるが、視点を変えれば可能だろう。ただ、そんなに広い道場を持っているところはないから、戦う選手とレフェリーだけで行うというものだ。もしもの感染も最小限に抑えられる。

 無人の道場には無人の固定TVカメラ、無人のリモートコントロールのカメラが配置されている。取材のリモートコントロールのスチールカメラも取り付けられている。記者も関係者もカメラマンもこの模様は外からモニターで追うことになる。

 そんな設定が施された無人の道場に選手が順に入って来て、試合が始まる。余計なものはすべて排除されているから、道場内は異様を極めた雰囲気になる。これもレアでいいのじゃないか、と筆者は思う。

過去がヒントになることもあるのでは?

 毎日とは言わない。1週間に1回。プロレスが忘れ去られてしまわないように質の高い試合を提供する。

 1日に何試合もカードを組む必要もない。2試合でも3試合でもいいはずだ。本当に1試合だけでもいいはずだ。

 かつて、これは無観客ではないが、藤波辰巳と木村健吾が後楽園ホールで戦ったことがある。1987年1月14日。他のカードは一切なく、この1試合だけが行われたのだ。マットのクッションを取り除き、スプリングも抜いて投げ技が有効なリングだった。

 こんな時期だから、いろいろなことが思い出されるし、過去がヒントになることもある。

 ファンの前でのファイトが可能になるまで、できることなら後楽園ホールで1週間に一度、無観客でのワンマッチ定期戦というのもいいのではないかと思う。

(「プロレス写真記者の眼」原悦生 = 文)