『Sports Graphic Number』は創刊1000号を迎えました。それを記念してNumberWebでも執筆ライター陣に「私にとっての1番」を挙げてもらう企画を掲載します! 今回はブラジルを中心に南米サッカーを追っている沢田啓明氏。同氏が挙げたのは“W杯史上最高の試合”とも評される、1986年メキシコW杯、ブラジルvs.フランスを現地観戦した思い出について――。

 メキシコシティから夜行バスに乗り、早朝、グアダラハラに着いた。もう34年ほども前となる1986年6月21日。ワールドカップ(W杯)メキシコ大会準々決勝のブラジル対フランスを観戦するためだ。

「一体、どんな試合になるんだろう」と想像して、なかなか寝付けなかった。

 筆者は大学卒業後に会社勤めをしていたが、留学を思い立って退職。サハラ砂漠のプラント建設現場で半年間、フランス語通訳として働いて資金をこしらえた。ところが準備不足で希望していた大学に入学できず、帰国。その後の身の振り方を考えていたとき、W杯開幕が近づいてきた。

 開催地は1970年大会でキング・ペレ率いるブラジル代表(セレソン)が躍動し、通算3度目の優勝を遂げた陽気な国メキシコだ。「これは行くしかない」と考え、留学資金を“流用”して旅立った。

簡単に手に入ったW杯のチケット。

 今ではとても考えられないが、当時はW杯のチケットを手に入れるのは簡単だった。メキシコ行きの航空券を買った旅行代理店から十数試合のパッケージを購入してバウチャーを受け取り、現地でチケットに交換してもらった。

 メキシコシティの中心ソカロ広場から歩いて数分の安ホテルを根城に定め、イタリア対ブルガリアの開幕戦を皮切りに、2日に1試合くらいの頻度で観戦した。

 メイン会場のアステカ・スアジアムはなんと5階席まであり、収容人員は当時日本で最大だった国立競技場の2倍以上。その大きさに度肝を抜かれた。試合のレベルも、Jリーグ創設前の日本やアジアのレベルとは異次元。「これが本物のフットボールだったのか」と驚嘆する毎日だった。

手負いのジーコ、盤石のフランス。

 セレソンは、グループリーグを全勝で勝ち上がり、ラウンド・オブ16でポーランドを4-0と粉砕。4戦全勝で勝ち上がっていた。

 1982年大会でジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾの黄金のカルテットが奏でる“芸術フットボール”で世界を魅了した。にもかかわらず2次リーグでイタリアの前に敗退。4年前の雪辱を誓っていた。

 ただし、かつてのカルテットのうち健在なのはソクラテスだけ。セレーゾは招集外で、ファルカンは控えに回り、ジーコは左膝の故障が完治しておらず、後半途中からしかプレーできなかった。それでも、カレッカ、ミューレルという破壊力十分の若手FWが加わり、攻撃的なスタイルで地元観衆を魅了していた。

 一方、フランス代表は2年前のユーロ(欧州選手権)王者。“将軍”ミシェル・プラティニが健在で、小柄なテクニシャンのアラン・ジレスとジャン・ティガナ、長髪の野性的なストライカー、ドミニック・ロシュトーらがおり、流麗なパスをつなぐエレガントなチームだった。ラウンド・オブ16で前大会優勝のイタリアに快勝しており、「フランスのフットボール史上最強」と言われていた。

セレソンの準ホームのように。

 グアダラハラのハリスコ・スタジアムは、1970年大会でセレソンが決勝を除く5試合を戦って全勝し、この大会でもずっとここでプレーして勝ち続けていて、セレソンの“準ホーム”のような場所だった。

 スタンドは2階席まででアステカ・スタジアムよりずっと小さかったが、ピッチまでの距離が短くて非常に見やすい。ピッチはまるで緑の絨毯を敷き詰めたようによく整備されていた。

 欧州のゴールデンタイムに合わせて、試合開始は正午。ファンファーレが鳴り、総立ちの観衆の地鳴りのような歓声と拍手に迎えられて両チームの選手が入場してきた。

 いよいよ、試合が始まった。

両チームとも華麗な攻撃だった。

 プラティニとジレスがパスを交換し、プラティニからの戻しを右サイドバックのマヌエル・アモロスがシュート。これはわずかに外れたが、スタンドが大きくどよめいた。

 ブラジルも負けてはいない。ソクラテスとジュニオールが中盤を構成し、右のジョジマール、左のブランコの両SBがまるでウイングのように攻め上がってフランスのゴールを襲う。華麗であるのと同時に、見ていて背筋が寒くなるような迫力があった。

 ミューレルが、魔法のようなドリブルでマーカーを抜き去る。ジュニオールが左へ流したところをカレッカが右足で蹴り込み、ブラジルが先制する。

 そこからフランスが反撃する。右からのクロスが逆サイドに流れたところを、プラティニが左足で押し込んで同点としたのだ。

 後半も互いに攻め合って決定機を作るが、惜しくも決まらない。

ジーコのPK失敗、夢のような90分間。

 後半の中頃、ジーコが大歓声に送られてピッチに入る。その直後に中盤でパスを受けると、右足アウトサイドで絶妙のスルーパス。左サイドから斜め前へ走り込んできたブランコが追いついたところを、フランスのGKジョエル・バツが倒す。主審はブラジルにPKを与えた。

 キッカーはジーコ。右足から放たれたボールは向かってゴールのやや右へ飛んだが、バツが跳ね返す。悔しそうにうつむいたジーコを、プラティニが慰めた。

 その後はブラジルが優勢。ジュニオール、カレッカ、ソクラテスらが決定的なシュートを放つが、GKバツが立ちはだかった。

 90分間が終わって1-1の同点で、延長に突入した。この大会のここまでで、間違いなく最高の試合。「まるで夢でも見ているようだ。永遠に終わらないでほしい」と思っていたので、さらに30分間、夢の続きを見れるのが嬉しかった。

 延長でも、両者は果敢に攻め合った。

 延長後半、プラティニからのスルーパスを受けたFWブルーノ・ベローンヌが独走。それをブラジルのGKカルロスが飛び出し、突き倒す。明らかなファウルだったが、主審が見逃した。

 結局、試合は同点のまま終わり、勝負はPK戦に持ち込まれた。

 ブラジルは、1人目のソクラテスと5人目のCBジュリオ・セザールが外し、5人のうち3人が成功。フランスはエースのプラティニが外して頭を抱えたが、5人目のMFルイス・フェルナンデスが強烈に蹴り込み、準決勝進出を決めた。

ゾーンプレス以前に生まれた美しさ。

 フランスの選手が狂喜する一方で、いつも陽気なブラジル選手たちが首をうなだれ、悄然とピッチを後にする。

 試合内容は、全般的にはブラジルがやや上。もし後半のPKをジーコが決めていたら、ブラジルが勝っていたのではないか。

 当時はイタリアの名将アリーゴ・サッキがゾーンプレスという革命的な守備戦術を編み出す前で、試合のインテンシティ(強度)も低かった。とはいえ名手を揃えた両チームが展開した攻撃的なフットボールは美しく感動的で、しばらくの間、席から立ち上がれなかった。

 10分以上が過ぎ、名残惜しさを振り払って出口へ向かった。

 見ると、黄色のユニフォームを来た一団がまだ座席に座り込んでいる。呆然自失の体で、泣きじゃくっている者もいる。

「1950年のW杯ブラジル大会最終戦で、ブラジルが宿敵ウルグアイにまさかの逆転負けを喫したとき、20万観衆の多くが席にうずくまって動けなかった」という記述を読んだことがあったが、「ああ、こういうことだったのか」と合点がいった。

 試合のことを考えながら夕食をとり、夜行バスでメキシコシティへ帰った。疲れていたが、試合のシーンが次々に思い出され、ほとんど眠れなかった。

マラドーナの“神業”も目撃。

 続く6月22日は、アステカ・スタジアムで準々決勝のアルゼンチン対イングランドを観戦。マラドーナの“神の手ゴール”と5人抜き独走ドリブルからの得点という、対照的な意味で世界フットボール史に残る2つの“神業”を目撃した。

 アルゼンチンの2点目の後、11万人を超える大観衆が「信じがたいものを見た」という思いを共有し、10分以上もざわついていた。

 ブラジルを倒したフランスは、準決勝で西ドイツに完敗。決勝はアルゼンチン対西ドイツとなった。

 アルゼンチンが2点を先行したが後半、西ドイツがCKから得点を重ねて追いつく。しかし終盤、マラドーナからのパスを受けたホルヘ・ブルチャガが決め、アルゼチンが3-2で勝って8年ぶり2度目の優勝を遂げた。

それでもブラジル対フランスだった。

 優勝したアルゼンチンとマラドーナのスーパープレーも素晴らしかったが、この大会で最も印象に残ったのは、やはりグアダラハラでのブラジル対フランスだった。

 大会後、メキシコからほぼ陸伝いに南下してブラジルにたどり着き、リオのマラカナン・スタジアムで試合を見た。一度は日本へ戻ったがブラジルの国や人々、そしてフットボールが忘れがたく、この年の末にサンパウロへ渡った。

 やがて日本の新聞や雑誌にブラジルのフットボールについて記事を書かせてもらえるようになり、1986年W杯に出場したジーコ、ソクラテス、セレーゾ、テレ・サンタナ監督らにインタビューすることもできた。

 その度に、1986年のブラジル対フランスを思い出した。

 その後の人生を変える一因ともなったこの試合は、間違いなく私にとっての「1番」だ。

 それでも、いつかこれを超える試合を見ることを夢見ながら、ブラジルと南米のフットボールを追い続けている。

(「熱狂とカオス!魅惑の南米直送便」沢田啓明 = 文)