大ちゃんの目に涙――。

 高砂親方の3度目の涙を見たのは、無観客開催場所となった大阪場所の、千秋楽パーティでのことだ。

 新型コロナウイルス対策で、各相撲部屋がパーティを自粛、規模を縮小した内輪での懇親会の形をとるなか、高砂部屋も大阪市内のホテルで、参加客を通常の3分の1に減らし、着席する各テーブルの間隔を充分に取るなど、出来うる限りの対策を取って開催にこぎ着けた。

「今日、弟子の朝乃山が、この大阪で大関昇進を決めてくれました。本当によく頑張ってくれた。私の第二の故郷でもある大阪は、初優勝し、大関に昇進した縁の深いところです。

 高砂部屋の師匠として大阪の地を踏むのは今日が最後となりますが、新型コロナウイルス問題が騒がれており、時節柄、不安もあるなか、こんなに大勢の方々に集まっていただき――」

  声を詰まらせ、その細い目にみるみる涙が溢れる。

縁の深い大阪での最後の場所だったが……。

 近畿大学卒業で、夫人も生粋の大阪育ちだ。

 現役時代は“大ちゃん”の愛称で親しまれた朝潮は、初土俵も初優勝も大関昇進も、すべてが大阪の、通称“大阪太郎”。今年12月の誕生日で65歳の停年退職を迎え、今回が最後の大阪場所となる。

 人一倍思い入れのある浪速の地で、感謝と別れの挨拶を兼ねたパーティでもあったのだ。

 通常の立食形式であったならば、朝乃山の大関昇進もあり、押すな押すなの大盛況だったはず。無観客開催の緊張感ある15日間を無事終え、大阪という土地への郷愁、愛弟子の慶事。いろいろな想いが交錯し、感極まったゆえの“3度目の涙”だった。1度目、2度目の涙は――。

弟子に涙し、弟子に励まされてきた親方。

 以下、「『悲しみ』と『歓喜』のオヤジの涙。朝乃山が紡ぐ高砂部屋の新たな歴史」(https://number.bunshun.jp/articles/-/839550) から引用したい。

     ◇     ◇     ◇

 1度目は、2007年8月、弟子の横綱朝青龍が「巡業を休み母国でサッカーをしていた」と波紋を呼び、騒動となった渦中でのことだった。

 当時、高砂部屋前にある居酒屋のカウンターの隅に陣取り、ひとりテレビを観ながら一杯ひっかけ、帰宅するのが日課でもあった親方だった。この日、用件を伝えるべく(一席分距離を取って座り)タイミングを窺っていると、親方は唐突にぽつりとつぶやいた。

「ふーっ……。俺な、これまで生きてきた51年のなかで今が一番辛いわ……」

 ふとその横顔に目をやると、高砂親方のあの細い目が赤く、どこか潤んでいるようにも思えた。

(中略)当時、連日マスコミに追い掛け回され、相撲協会内部からも突き上げを食らっていたのが高砂親方だった。協会理事であり、広報部長。何よりも弟子の指導監督責任を問われる“師匠”でもあった。メディアを通して見る親方は、一見、悲愴感を感じさせず周囲を拍子抜けさせるほどのキャラクター“大ちゃん”だったが(略)。

 そして2度目の涙は、2016年11月の九州場所、千秋楽のこと。この日は「名門高砂部屋 138年の歴史が途絶えた日」でもある。

 明治11年から実に138年ものあいだ、関取を途切れさせることなく輩出してきたのが高砂部屋だった。2010年2月の朝青龍引退後、ひとり関取として伝統を繋いでいた35歳の朝赤龍が、とうとう幕下に陥落することが決定的となったのだ。朝赤龍の弟弟子である朝弁慶は、この場所、1年間つとめた十両の座から幕下3枚目まで番付を落としていた。4勝を挙げたが、勝ち星がわずかに足りず、1場所での十両復帰は叶わなかった。十両9枚目、4勝10敗で千秋楽を迎えていた兄弟子に、祈りを込めるかのように力水を付けたのが、朝弁慶だった。

 しかし“十両入れ替え戦”として、幕下の希善龍にあえなく黒星を喫する朝赤龍。

 支度部屋で報道陣に囲まれた元関脇は、「自分で(記録を)途切れさせてしまうのは、先輩力士たちに申し訳ない」と、涙を堪えていたという。

 この日の千秋楽打ち上げパーティ終盤になり、焼酎の水割りを手にしていた高砂親方の元に、意を決したように朝赤龍が歩み寄った。

「親方、本当にすみませんでした……。幕下に落ちてまで相撲を取れるかわかりません。僕は親方に出会えて本当によかった」

 堰を切ったように涙をポロポロと流し、子どものように泣きながら思いの丈を伝える愛弟子に、一瞬驚いた高砂親方もまた、釣られるように涙を流す。

「おいおい、お前のせいじゃないよ。今までよく頑張ってくれた。朝青龍の引退後は、お前ひとりに負担を掛けて悪かったな。来場所からまた関取復帰を目指して頑張る姿を、若いやつらに見せてやれ。それが、関取として長年頑張って来たお前の仕事だよ」

 おしぼりでその目をぬぐいつつ、師弟は互いに肩を、腰を抱きながらさらに涙にくれる。この光景を、会場の壁際に並んでいた弟子たちの誰もが、見守っていた。

 なかでも朝弁慶は、自身の責任も痛感したのか――その大きな体を折るように、傍らにいる呼出しの肩を借り、いつまでも泣き続けていたのだった。この時、幕下14枚目だった、当時の石橋――朝乃山の目にも、この光景はしっかりと焼き付けられていただろう。

 パーティ終宴後、高砂親方は弟子たちを集め、涙をぬぐった笑顔で、自らをも鼓舞するようにこう言った。

「これをまた新たなスタートとして、新しい高砂部屋の伝統を、これからみんなで作って行こうな!」

 そして、年が明けての1月初場所。石橋が怒濤の幕下全勝優勝で新十両昇進を決め、「朝乃山」を名乗る。皮肉にも、涙の乾く間もないほどにわずか1場所途切れただけの記録となった。

 思い起こせば、新しい高砂部屋の歴史が、この時からスタートしていた。

     ◇     ◇     ◇

(以上 引用終わり)

「相撲を愛し、力士として正義を」

 かつて、親方と朝赤龍が涙にくれる姿を目にして号泣した朝弁慶は、この大阪場所で再々十両昇進を決めた。現在は錦島親方となり師匠を補佐している元朝赤龍はもちろん、部屋の栄枯盛衰、喜怒哀楽を分かち合って来た兄弟子や弟弟子たちに見守られ、当時の石橋――朝乃山は、晴れて金屏風を背にした。

 大関昇進伝達式、当日。母校富山商業高校の校訓「愛と正義」、子どもの頃から好きだった言葉だという「一生懸命」も盛り込んだ新大関の口上は、

「大関の名に恥じぬよう相撲を愛し、力士として正義を全うし、一生懸命努力します」

 37年前、同じ宿舎の寺で使者を迎えた師匠の口上にも、「一生懸命」との4文字があり、これはたまたまの偶然だったと師弟ともにいう。

「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」の思い出。

 式に欠かせない金屏風や赤い緋毛氈、乾杯のビールや祝い鯛。その準備に、部屋のマネージャー、行司や呼出したちが奔走する。相撲界では、本場所後1週間は休日なのだが、もちろん“うれしい休日返上”だ。伝達式が終わると紋付き袴姿の新大関が、行司や呼出しに歩み寄って来た。

「場所後なのに、いろいろ準備していただきありがとうございました。これからもよろしくお願いします!」

 そう頭を下げ、感謝の言葉を口にしたという。思い返せば、かつて高砂親方がこう言っていたことがある。

「朝青龍が横綱になった時、『実るほどこうべを垂れる稲穂かな』ということわざを例えに出して教えたんだ。地位があっても謙虚でいなきゃいけないぞ、という意味でね。でも、考えたらモンゴルには田んぼがないんだもの、そりゃ意味もわからないはずだよなぁ。あっはっは!」

若い衆を自らねぎらう朝乃山の姿が。

 千秋楽翌日の一夜明け会見に、朝乃山とともに臨んだ高砂親方は、「こうべを垂れる稲穂かな、じゃないけれど、己を磨かないといけない」と、この時もまた引き合いに出していたものだ。傍らの師匠の言葉を、素直で実直な朝乃山は胸に刻んでいたのだろうか。

 伝達式も終わって人が掃け、ふと気がつくと、紋付き袴を脱いでリラックスしている新大関が、「どこかいいランチの店、ないですかねぇ」と言いながらスマホを操作している。せわしく片付けに動き回る付け人たちを見やり、

「あ、これから6名大丈夫ですか? はい、名前は石橋(本名)です。電話番号は……」

 人の手を借りずに自ら予約電話をし、若い衆を中華料理屋で”接待”するのだった。

今度は“朝乃山”の名前を大きく。

 朝青龍を横綱に育て上げたあと、高砂親方は「次は朝潮の名前を継ぐ、日本人横綱を育ててみたい」との夢を口にしていた。しかし、今は、その思いも少々変化している。

「朝潮太郎の名は、もう自分の代で終わりでもいいと思っている。朝乃山という、亡き恩師の名前の入った大事な四股名を変えさせるなんてできないよ。朝乃山英樹という名前はいろんな縁で名付けてもらって、今、こうして大関になれた。自分で“朝乃山”の名前を大きくしていけばいいんだ。四股名とはそういうものだから」

 師匠の停年退職まで、あと4場所。朝乃山は「もうひとつ上の番付を狙いたい」と表情を引き締めている。

 高砂親方4度目の「最後の涙」は、いつ見られるのだろうか。

(「相撲春秋」佐藤祥子 = 文)