新型コロナウイルスの感染拡大はなかなか収束が見えず、スポーツ・興行界に甚大な影響を与えている。

 プロレス興行も各地で中止が相次ぎ、最大手の新日本プロレスは、まず3月15日までの興行をすべて中止すると発表。その後、大会中止は3月21日まで延長が決定。結局、中止となった大会は、“春の最強決定トーナメント”が行われる予定だった『NEW JAPAN CUP』全戦を含む、16大会に及んだ。興行会社としては、とてつもない痛手だろう。

 また、3.3『旗揚げ記念日』大田区総合体育館大会は、内藤哲也vs.高橋ヒロムというファン注目の師弟初対決が組まれていたこともあり、中止は多くのファンを落胆させた。 

 この決定に対し新日本の木谷高明オーナーは、ツイッターで「日本全国のライブ、スポーツが中止になる中、ワールドと言うプラットフォームを持つ新日本プロレスが3月3日の創立記念日に無観客試合をやり、全国のファンに勇気と希望を与えるべきではないのか?」と投稿。一石を投じたが、ファンの間では「やはり無観客ではなく、大観衆の中で闘う二人の試合が見たい」という声が多かったこともあり、その案は取り下げられた。

 代わりに4日の後楽園ホールで、内藤哲也と高橋ヒロムが無観客のトークショーを開催。それを動画配信サービス「新日本プロレスワールド」で生配信。これが事実上、今年の「旗揚げ記念日」となった。

48年前、大田体育館での旗揚げ戦。

 苦しい現状の中で、最大限ファンによろこんでもらえるものを提供したかたちだが、では実際に今から48年前、1972年3月6日に大田区体育館で行われた、新日本プロレスの旗揚げ戦はどのようなものだったのか。実はその時もまた、今とは状況も要因もまったく違うものの、凄まじい逆風の中での船出だった。

 そもそも新日本プロレスの旗揚げは、アントニオ猪木の日本プロレス追放事件に端を発する。

放漫経営に立ち上がった猪木。

 “日本プロレス界の父”力道山が設立した日本プロレスは、1971年当時、ジャイアント馬場とアントニオ猪木の「BI砲」が人気絶頂にあり、日本テレビとNETテレビ(現テレビ朝日)で週2回、ゴールデンタイムでテレビ中継されるなど、第2の黄金期にあった。

 しかし幹部の放漫経営が原因で、莫大な収益をあげながら会社の内情は火の車というひどい有り様でもあり、ファイトマネーを不当に抑えられたレスラーたちの不満はどんどん溜まっていった。

 そこで立ち上がり、幹部を追放するべく動き出したのが猪木だった。まず自らの後援会長でもあった経理士に日本プロレスの経理を調べさせ、多額の使途不明金を突き止めると、所属全選手の署名入りの幹部追放嘆願書を作成。それは選手会の要求が受け入れられない場合、全員が退団するというものだった。

 しかし猪木のこの動きは、一部選手のリークもあり、事前に幹部に知られてしまうことになる。慌てた幹部はエースである馬場を始めとした主力選手を懐柔し寝返らせ、「猪木は社内改革と称し、会社乗っ取りを謀った」として、幹部会で猪木の除名処分を決定。猪木に乗っ取りの汚名を着せ永久追放したのだ。

テレビ放送はなし、集客にも苦戦。

 日本プロレスを追われた猪木は、すぐさま新団体設立を決意。除名処分となった翌月、1972年1月26日に早くも新日本プロレス設立を発表し、3日後の29日には世田谷区野毛の自宅敷地に突貫工事で建てた道場も公開。そして3月6日に大田区体育館で旗揚げ戦を行なった。

 しかし、テレビ放送はついておらず、所属レスラーもエースの猪木以外で知名度があるのは、せいぜい番頭的立場だった山本小鉄ぐらい。当然、観客動員には苦戦した。また、古巣の日本プロレスによる、さまざまな妨害工作にも苦しめられた。

藤波辰爾「当時はないないづくし」

 新日本の旗揚げメンバーである藤波辰爾は、以前取材した際、当時の様子を次のように語っている。

「あの頃、日本プロレスは猪木さんの新団体をなんとか潰そうとしていたんだよね。だから新日本が旗揚げを発表しても、日プロがマスコミに圧力をかけたから、記者会見にも記者が全然来なかったし、新日本の記事はスポーツ新聞にもほとんど載らなかった。また、地方のプロモーターにも日プロから『新日本の興行を買ったら、うちは売りません』というお達しが行っていたので、一切興行を買ってくれなかった。だから、新日本は手打ちで興行を打つしかない状況がしばらく続いたんだよね。

 それと同時に海外には、(プロモーター連盟組織である)NWAなどを通じて新日本に協力しないように通達が行っていたから、外国人レスラーを呼ぶこともできない。唯一、猪木さんの師匠でもあるカール・ゴッチの協力で、ヨーロッパの無名選手を何人か呼ぶことはできたけど、ファンに名前が知られたアメリカの選手は1人も呼べなかった。とにかく、旗揚げ当初の新日本は、ないないづくしだったんだよね」

“逆境”を力に変えた猪木。

 興行ルートも外国人選手の招聘ルートもマスコミも、すべてを断たれて四面楚歌に立たされていた猪木。興行を続ければ続けるほど赤字はふくらんでいったが、それでも黎明期の新日本プロレスの雰囲気は、決して悪くはなかったという。

「あの逆境がかえって猪木さんや我々の力になったんじゃないかな。『そうはいかん!』というね。確かに、旗揚げシリーズは数試合しか興行が組めなかったし、旗揚げ戦の大田区体育館以外は、地方に行くと、観客も数えられるくらいしかいない。『これが天下のアントニオ猪木の旗揚げシリーズか』と愕然とするくらいで、それがしばらく続いたんだけど、みんな必死だった。

 猪木さんは自宅を僕らの合宿所に提供して、その庭に半分手作りで練習場を建ててね。そこで練習したあとは、我々レスラーも飛び込み営業をして、チケットを売って歩きましたよ。宣伝カーのウグイス嬢を猪木さんの当時の奥さんである倍賞美津子さんや、姉の倍賞千恵子さんがやってくれたり、選手や社員その家族までみんな一丸となって『なんとか新日本プロレスを成功させるんだ』って燃えていたから怖くなかったし、負ける気がしなかった。そういう熱意がファンにも伝わっていって、少しずつお客さんが増えていったんですよ」

旗揚げの理念を今、改めて。

 そして新日本は旗揚げから1年後、日プロから坂口征二(現・新日本プロレス相談役)が移籍するのと同時に、NETのテレビレギュラー放送を獲得。ここから一気にメジャー団体への階段を駆け上がっていき、48年経った今も業界最大手の地位を守り続けている。

 旗揚げ記念日、創業記念日とは、どんな企業にとっても、創業の理念を忘れず、さらなる発展を祈念する日だ。

 新日本の旗揚げ時の理念は、一丸となって逆境に立ち向かうこと。試合が再開された暁には、選手たちがそんな姿を、またリング上で見せてくれることだろう。

(「ぼくらのプロレス(再)入門」堀江ガンツ = 文)