プロサッカー選手・長谷川悠はこの瞬間に人生の岐路に立たされた。

 昨年12月上旬。V・ファーレン長崎との契約交渉の場で、「契約満了」になることを告げられた。

「ショックはありませんでした。正直、自分の年齢とか出場数を考えると(満了の)可能性はあるなと思っていました。監督のイメージにフィットしていなかったのも感じていたので、その宣告は仕方がないのかなと」

 1987年山梨県生まれ。今年で33歳。内田篤人、槙野智章らと同じ“調子乗り世代”だ。高校は地元を離れ、名門・流通経済大柏に進学。2006年に柏レイソルでプロキャリアをスタートさせた。

 187cmの長身を生かしたゴール奪取が魅力のストライカーは、そこからFC岐阜、アビスパ福岡、モンテディオ山形、大宮アルディージャ、徳島ヴォルティス、清水エスパルスとJリーグを渡り歩いてきた。昨季在籍した長崎で満了が伝えられた2カ月半後、彼はオーストラリアにいた。

 さすらいの点取り屋は、ニューサウスウェールズ州イラワラ地域の独立リーグであるウロンゴン・オリンピックへの入団を決めた。

キャリアに悩む一方、身体は動く。

「5年前くらいから怪我が多くなって、なかなか試合に絡めなくなった時に、将来に対する不安が増えてきた。どうすればいいのかを考えながらやっていたんです」

 このままでいいのか、いつまでプロサッカー選手を続けられるのか、他のことにもチャレンジしたほうがいいのか。セカンドキャリアを考える中で、自分が進むべき道を見出せずにいた。

 葛藤が続く中でも、長谷川はプロとして新しい取り組みを取り入れていたという。まずは怪我をしない身体を作るべく、食事面を抜本的に見直して自然食などを摂取。さらにトレーニングにヨガを取り入れて、姿勢や所作にまで意識を巡らせる。体重を3キロ絞ったことで、徐々にフィジカルコンディションは向上した。

「大宮、徳島でプレーしていた時の怪我が多い自分よりも、練習中に走れたり、身体のキレや感覚など、着実にコンディションが上がっている手応えが生まれてきた」

「視野が広いな、考え方が違うなと」

 自身の行いだけに留まらず、チームメイトとの出会いも長谷川を変えていった。清水時代にチームメイトとしてプレーしたオーストラリア代表FWミッチェル・デュークとコミュニケーションを積極的に取った。

「片言の英語や通訳の方を交えての会話でしたが、デュークからはオーストラリアの日常生活を聞いて物凄く興味が湧いたんです。休日は海に行ったり、カフェに行ったり、のんびりしたいい所だよとか、サッカーをする上では日本の方がいいよとか、本当にいろんなことを聞いた。

 それに通訳の人も他文化をよく知っている人だったので、ふとしたことで視野が広いなとか、考え方がちょっと違うなという印象を受けたんです。僕自身、音楽が好きで、海外の音楽を通じて文化や価値観などを感じて、興味が膨らんでいた時だったので、海外に行くことも選択肢に入るようになりました」

どこに行っても、誰かの代わり。

 清水を契約満了で退団した時も、一度は海外移籍を視野に入れたことはあった。だが、「まだJリーグでやりきりたいという思いがあった」と話すように、現実的な選択肢には入れなかった。

「僕はどこに行っても、『〇〇の代わり』なんです。山形の時も怪我をした豊田陽平(現・サガン鳥栖)くんの代わりだったし、大宮でもラファエルのサブとして入ったし、清水では怪我をした大前元紀(現・ザスパクサツ群馬)の代わり。なんなら調子乗り世代と呼ばれたU-19、U-20日本代表の招集もハーフナー・マイク(前バンコク・ユナイテッド)が怪我でいないときだけに呼ばれるような存在でしたから(笑)。

 FWが欠けたクラブを渡り歩いて来た自分だからこそ、そろそろ『どうしても必要だ』と思ってくれるクラブで活躍をすることで、自分の中で『やりきった』という思いを味わいたかったんです。それがJリーグに対する未練でした」

 日本人では稀有な高さと技術をあわせもつストライカーは、Jクラブでも重宝される一方で、絶対的存在になることはなかった。8クラブ目となった長崎も移籍市場ギリギリで入団が決まった状態で、いわば“補充”の立ち位置。J2リーグで13試合に出場も、スタメン出場はわずか3試合。ゴール数も「2」に終わり、契約満了が告げられたのだった。

「J1、J2からのオファーは来ませんでした。でも、逆に選択肢が一気に増えた気がしたんです」

「オファーなし」で逆に自由になった。

 一見、「Jリーグに見放された男」と映るかもしれないが、彼の中ではポジティブな思いにあふれていた。

「暗くなったり、将来が不安になったりは一切ありませんでした。逆に『自由になった分、何を選ぼうかな』と自分に対する期待が大きくなったんです」

 その間、地元のクラブユースを回ったり、ヨガやサッカーのビジネスに取り組む人など、いろんな人に会い、積極的なコミュニケーションをとった。中には自らの考えをプレゼンする機会にも恵まれたという。こうしたアクションもあって関東リーグや東京都リーグのクラブで仕事をしながらプレーするオファー、また就職するオファーが舞い込んできた。

「ビジネスにも興味があったし、違うチャレンジをする上で視野が一気に広がったんです。だからこそ、その時にふと『あ、ここが海外チャレンジのチャンス』と考えが浮かんだんです」

豪州に永住権を持つ先輩・田代。

 そう思った長谷川はすぐに行動に出る。以前から交流があった先輩・田代有三とすぐに連絡を取った。田代は鹿島アントラーズでエースとして活躍、Jクラブを渡り歩いた後、2017年にオーストラリアリーグ2部相当(NPL1)のウロンゴン・ウルブスに移籍した経歴を持つ人物だ。現在は、オーストラリアの永住権を獲得し、日本人向けのサッカースクールを運営するなど、ビジネスマンとしても活躍している。

「将来を考えると英語圏に行きたかったんです。ヨーロッパはどちらかというとサッカー選手としてのステップアップが目的になるけど、僕は違った。アメリカとかオーストラリアなどの英語圏で、世界共通語である英語を学んで、いろんな世界を見たいと思ったんです」

 デューク、そして田代の存在もあって、彼はオーストラリアに新天地を求めた。

 しかし、予想以上に苦戦を強いられた。

所属が決まらなくても、帰国は考えず。

 当初は国内トップレベルのAリーグを希望してクラブに自身のプレー映像を送ったが、叶わず。田代が所属していた下部リーグのクラブにもアタックをかけたものの、話は途切れるばかり。どのチームもストライカーが足りている状況で、日本人の“助っ人”に求めるのは技術に長けた中盤の選手ばかりだった。

「僕のような長身FWは自国やヨーロッパ、南米で補えるからなかなか必要とされなかったんです。でもなぜか諦めて帰国しようとは思わなかった。それで有三さんが『バイトをしないといけないくらいの金額にはなるけど、興味を示してくれているチームがある』と教えてくれた。それが地域リーグに所属するチームの1つであるウロンゴン・オリンピックだったんです」

 これまでJ1リーグ178試合(26得点)、J2リーグ113試合(19得点)をマークしている経験豊富な選手が、実質3、4部相当のチームの練習に参加をする。もし長谷川自身にこれまでの実績に対するプライドがあれば、話にならないオファーだろう。

「でも、なんか面白そうだなと。アメリカやカナダのクラブに行く選択肢もあったのですが、これも縁だなと、ウロンゴンの練習に参加しようと思ったんです」

自分の操縦席に自分が座っている状態。

 練習場のグラウンドはボコボコで、ボールの空気も満足に入っていない。同僚となる選手のレベルも決して高いとは言えなかったが、なぜか純粋にサッカーを楽しめた。

「最初は当然みんな僕のことを知らないので、『誰だコイツ』という目で見ていたのですが、練習試合に出場をして、そこで前半から点を取りまくったら、『とんでもない奴が来たぞ!』と周りのテンションがどんどん上がっていくのを感じたんです。前半終了時点でスタッフから『今すぐにでも契約をしたい!』と言われて、嬉しかったというか。サッカーを始めた頃、山梨から流通経済大柏を選んだ時に感じていたものを思い出したんです。(チームメイトが)話しかけてきてくれる感触が本当に懐かしかったし、心から楽しいなと」

 これこそが、長谷川が求めていたものだった。

「自分が自分らしく生きるにはどうしたらいいかはずっとテーマとして持っていた」と語る彼には、大切にしている言葉があった。それは『幸せは自分の操縦席に自分が座っている状態のことを指す』という言葉だ。

「よくあるパターンとして、気がついたらその操縦席に誰かが座ってしまって、自分をコントロールされてしまう。そうならないためには、自分を持つことが大事。このまま日本でJリーグやプロサッカー選手にしがみついていると、それこそ視野が狭まって息苦しくなってしまうのではないかと思ったんです。

 それに今後、自分がサッカーを辞めた後に家族に生活面で苦労させたくない。サッカー選手として身体が動くうちに、引退後の生活の土台となる仕事をするための経験やスキル、人間としての知見の幅を広げたいと思った。そうなると新たな人生の1歩目はこのオーストラリアでスタートさせて、その中で大好きなサッカーをしたいなと。あの純粋な気持ちにも触れることができて、『ここだな』と感じたんです」

試合に出れない週はバイトで賄う。

 これまで14年間Jリーグでプレーしてきたことで、選手会から功労金をもらえたことも大きかった。さらに選手としての身体と心作りのために取り組んできたヨガや食事法は、オーストラリアでも学べる。傍から見れば、“過酷な環境”だろうが、長谷川にとっては“ようやく居心地のいい場所を見つけた”、そんな感覚だったのだろう。

「ここはサラリーの払い方が独特で、練習と試合に出て初めてその1週間分の給料が支払われるという形なんです。たとえば怪我した場合は、数週間の保証こそありますが、試合に出られないときはアルバイトをして賄わないといけない。はっきり言って良い環境とは言えませんが、何よりここには僕に対する“情熱”があるんです」

 実はウロンゴン・オリンピックの練習試合に参加した日から、正式加入の回答まで数日空いていた。その間、クラブは『いつOKをくれるんだ!』とずっと彼との契約を待ちわびながら待ち続けてくれた。

「そこまで歓迎されるのは高校時代以来かな」と笑う一方で、「ここはプロ1年目にレンタル移籍していたFC岐阜(当時、東海リーグ1部)にあったような反骨心がある。初心に返ることができる場所だと思ったし、本当にありのままの自分で臨めるんです」と心を躍らせている。

溢れ出す将来へのビジョン。

「サッカーではチームの優勝はもちろん、NPL1、Aリーグの個人昇格も目指す。ピッチ外では、将来的に人材育成に携わる職業や、選手や代理人、トレーナーを繋ぐようなシステムを作りたい。個人でヨガや食事法など学んできたものをプレーヤーに伝えていくような仕事をしたいんです。もちろん海外での活動も視野に入っています。

 将来への目標が溢れているからこそ、それを1つずつ形にしていくために、今この環境を全力で楽しみながら成長していきたいです。まずは3月下旬から9月上旬(プレーオフ進出の場合)までのシーズンを全力でやります。その先はこの半年間で得たものを見て、判断していきたいと思います」

 年齢を重ねて、視野が広がりつつある今だからこそ、サッカー以外にも自分の今後のためにどんどんアクションを起こしていきたい。長谷川悠の新たなチャレンジはサッカー選手として、社会人として、1人の人間として、希望に溢れた選択であった。

(「“ユース教授”のサッカージャーナル」安藤隆人 = 文)