2月22日にオランダのハーグで行われたチャレンジ杯、男子フリー。最終滑走で『Dancing On My Own』を演じ終えた宇野昌磨は、すぐさま後ろを振り返った。目当ての相手と視線が合い、思わず吹き出すような感じで笑う。

「練習であんな演技1回もしたことなかったので。自分もびっくりしましたけど、ステファンどんだけ驚いているだろうな、っていう思いで後ろ振り返って」

 リンクサイドには、今大会から正式なコーチとして同行するステファン・ランビエル氏がいた。2006年トリノ五輪銀メダリストで、2度の世界選手権王者。観客へのあいさつを終えて戻ってきた教え子の元に駆け寄ると、新コーチは両腕でぎゅっと抱き締め、何か声をかけた。

 キス&クライでは互いの右手をがっちりと合わせ、演技内容を振り返りながら得点が出るのを待つ。198.70点。2人とも、納得したようにうなずいた。今大会の記録は非公認ながら、フリーと、前日のショートプログラム(SP)との合計点はともに自己ベストを上回った。

 優勝が決まり、立ち上がった後で再び抱き合うと、コーチは宇野の左手を取って高く掲げ、観客の大歓声に応えさせた。

 よく目にする、競技後のフィギュア選手とコーチのほほえましいやり取りだった。

数カ月前まで欠けていた「普通」。

 わずか数カ月前の宇野には、この「普通」が欠けていた。メインコーチを置かない異例の体制でスタートしたシーズン。練習がうまくいかず、昨年11月のグランプリ(GP)シリーズ・フランス杯ではSPで得意のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を転倒するなど4位と出遅れ、フリーではトリプルアクセルで2度も転んだ。

 フリーの演技後、振り返るべき相手もいない宇野はその場に立ち尽くし、呆然とした表情を浮かべた。1人で座ったキス&クライ。観客から励ますような大声援を受けると、膝に顔をうずめる。

 やや遠くにいた筆者がスチールカメラの望遠レンズ越しに見たのは、泣き顔だった。ふがいない演技にもかかわらず温かい声援を受け、感謝で胸がいっぱいになったのだという。

 後になって、宇野はこの大会の演技内容を「本当にどん底だった」と振り返っている。

2人の相性の良さは容易に分かる。

 それでも、七転び八起き。これまで壁にぶつかった時と同様、くじけなかった。フリーから一夜明けて報道陣の前に現れた際の表情は、早くもすっきりとしていた。

「自分が今まで出してきた結果というのに、どうしても負けたくないとか、それに見合った演技をしたいとか、結果を出さなきゃとかずっと思っていたんですけど、今回の演技をもって、そういった感情が少し、少なくなったかなって思いました」

 シニア転向後、ファイナルを含む全戦で表彰台に乗っていたGPシリーズで自身ワーストの8位に沈むほどのミスを繰り返したことが、迷いを振り払うきっかけになったようだ。孤独に戦い続けることに区切りをつけ、ランビエル氏に正式なコーチ就任を依頼しようと決意したのは、この時だったのではないか。

 その後は日本に帰らず、スイスでランビエル氏とともに練習を続けた。2週間後のGPシリーズ・ロステレコム杯ではリンク内外で明るさが増し、演技にもはっきりと復調の兆しが現れていた。

 2人の相性の良さは、公式練習の様子から容易に見て取れた。宇野は英語が「マジで分かんないっす」というほど得意ではないが、ランビエル氏が身振り手振りを交えていくつか単語をつなぐと、しっかりと意図をくみ取っているようだった。

「感覚が非常に似通っています」

 ランビエル氏は言う。

「私たちはこれまで多くのショーを一緒にやってきたし、感覚が非常に似通っています。だから少しの言葉で(意図を)説明することができます。(コミュニケーションの問題は)全くありません」

 コーチを依頼されたら引き受けるか、と尋ねた。「考えることになるでしょう。全日本選手権が終わってから判断することになります」と慎重な答えが返ってきた。

 筆者は大会後の記事に「2人とも明言は避けているものの、言葉の端々からは2022年北京五輪に向けてタッグを組む可能性が高いことをうかがわせる」と記した。それは間もなく、現実になった。

2カ月ぶりの実戦でも輝いた。

 12月、全日本の開幕前。今後の練習環境を問われた宇野は、「たぶんステファンのところに」。正式な形での発表ではなかったが、うそがつけない性格なのだろう。メディアには「フライング発表」と報じらた。

 全日本を現場で取材していない筆者は、ネット動画で演技を確認した。SP、フリーともミスを抑え、まさかのミスが続いた羽生結弦をフリーで逆転し、4連覇を果たした。何よりも印象的だったのが、伸び伸びとした表情。今季序盤のフィンランディア・トロフィーから取材してきた中で、最も輝いて見えた。

 全日本以来、約2カ月ぶりの実戦となったチャレンジ杯でも、輝きは変わっていなかった。SPはジャンプでひとつミスが出たものの、フリーは昨季から決まらないことが多かった4回転サルコーを見事に着氷。出来栄え点(GOE)でも大幅な加点を引き出し、全体もまとめて高得点を挙げた。

「僕1人だったらサルコーは絶対に入れてなかった。フリップに手こずっているくらいだったので。でも、そこのあと一押し。『この試合に完璧な、無難な演技をしにいく必要はない』。試合前は『チャレンジを楽しんで』と言われて、それがそのままできたかなと思います」

 長期的な成長も見据え、リスクがあったサルコーに挑戦させたコーチと、その期待に応えた選手。師弟関係になってからの期間は短いが、早くも良い化学反応が起こっていた。

ステップの最中、楽しそうに笑う。

 取材後に記事を書き終え、写真の整理をしていると、いくつかの表情に目が止まった。ステップの最中、本当に楽しそうに笑っていたからだ。

 撮影中に気がつかなくても、見返すと明らかになることがよくある。心の様子が、はっきりと映ったと思えることが。演技のためにつくった笑顔とは思えなかった。全日本の演技を動画で見ながら感じた輝きが、生き生きとした表情に映し出されていた。

 次戦は3月にカナダ・モントリオールで開催される世界選手権。羽生結弦との再戦だけでなく、3連覇を狙うネーサン・チェン(米国)らとのメダル争いが注目される。宇野はどんな思いで今季最大の大舞台を迎えようとしているのか。表彰台に返り咲く意欲を問われると、こう答えた。

「もちろん、あります。やはりいい点数を出していい結果を残すというのは、練習していく中でのモチベーションでもあり、たくさん頑張って練習する自分へのご褒美にしたいとも思っているので」

「自分に勝ちたい」と言えるように。

 ただ、と付け加える。

「去年までみたいに『強くなりたい』『うまくなりたい』と、自分が強くなろうとは思わない」

 少し分かりにくいかもしれないが、「他の選手よりも」という言葉を補うと腑に落ちる。他人を上回ることを目標に置いてしまうと、必要以上に自分にプレッシャーをかけてしまい、結果的にいい演技につながらないことを、22歳は十分に学んできた。

 日本メディアの取材が終わり、地元オランダメディアの取材に通訳を介して応じていた最中にも、印象に残る言葉があった。世界選手権では勝つことが目的か、と問われた時だった。

「う~ん……たくさ~んすごい選手がいるので、誰に勝つっていうよりも、本当に誰に勝ちたいんですかって言われたら、自分に勝ちたいです」

 少し前までは自らに期待できず、「自分自身」を目標にできる状況ではなかった。復調の手応えを確信した今だからこそ、自分を越えることが目標と言えた。

スイスで過ごす理想的な日々。

 ここまで状態を戻せた要因は、ランビエル氏の存在に加え、スイス・シャンペリーでの落ち着いた練習環境も大きい。

 アルプスの山あいにあり、どこかのんびりした雰囲気が漂う美しい街。普段は午前6時半ごろ起床し、8時過ぎから練習。休憩をはさみ、午後2時ごろから再び練習。リンク外でのトレーニングもあり、「それやったら部屋に帰って寝て。本当にその繰り返しです」。

 今の宇野にとっては、理想的な場所のようだ。

「僕はすごく気に入っていて。ほんっとうに(練習以外にやることが)何もないんですけど、僕はそれがまたいいなと思っていて。スケート人生が終わるまで、楽しみたいって思ったことがここならできるなって思ったので。すごくいい環境だなと思ってます」

 GPファイナル出場を5季ぶりに逃し、ここまでトリプルアクセル-4回転トーループの大技を組み込めなかった点など、シーズン序盤の出遅れによる代償は小さくはない。それでも、1人のつらさを肌で感じ、どん底を経験した後、頼れる存在に巡り合い、心からの笑顔を取り戻した。

 令和の新時代とともに始まったシーズンは、競技人生でも濃厚な時間として記憶に残るだろう。

(「フィギュアスケートPRESS」長谷部良太 = 文)