アントニオ猪木77歳――喜寿を迎えた「燃える闘魂」の勇姿が、「アントニオ猪木の喜寿を祝う会」で見られました。
 NumberWebでは、喜寿を迎えてますます盛んなこのレジェンド・ファイターの数多くのエピソードを、写真家・原悦生の文章で振り返ることで祝辞に代えるべく、コラムを編んでみました。果たして“あの伝説”の真相は何だったのか……。第2回目は「VIPとして世界を股にかけた活躍を」です。

 1990年3月、キューバの日本総領事館。ドアを開けて、部屋に入るとフィデル・カストロがソファに座っていた。

 キューバ国家評議会議長――世界史の教科書で良く見た、あのカストロだ。

 その隣に座るアントニオ猪木と、なんとも楽しそうに自然な会話をしていた。その雰囲気は、30分前に初めて会ったようにはまったく見えなかった。

 ジョン・F・ケネディとカストロの時代。世界が核戦争の脅威に直面した「キューバ危機」は私も子ども心によく覚えていた。ケネディは1963年に暗殺されてしまったが、カストロはまだ健在だった。

 キューバ革命において、カストロはチェ・ゲバラと共に伝説となったのだ。目の前の老人は、まさに「生ける伝説」だった。

 私はそろそろとカストロに近づくとカメラのシャッターを切り始めた。その距離は2メートルもない。カストロはジロッと視線を投げてきた。

「私は新聞記者が嫌いなんだ」とカストロ。

「昔は新聞記者だったけれど、今は写真家だ」と私がすぐさま答えると、「好きに撮れ」というお許しのひと言が返ってきた。

カストロとは泥酔して仲良くなった。

 しばらくして始まった和食の食事会は、カストロが大好きという日本酒で始まった。猪木がカストロにお酌をして、それをカストロがうまそうに飲み干していた。

 食事が始まって2時間くらい経っただろうか、体の大きい2人が肩を組んで突然部屋から出てきた。

 2人とも呆れるほど上機嫌で、完全な酔っ払いだった!

 カストロの頭には、いつものあのトレードマークの帽子がなかった。なぜか猪木が、カストロのお気に入りの帽子をかぶっていた。

 これが初対面の時のエピソードだが、その後も猪木はキューバを訪問する度にカストロに会っていた。どうやらキューバにおける観光事業の推進に関して、猪木はキューバ政府から何らかのアドバイスや助力を求められていたようだ。

 カリブ海に沈んでいる海賊船の財宝をサルベージ船で引き揚げるというプランも政府関係者と真剣に話し合われたという。夢のある話だったが……海底にたい積している厚い砂の層がそれを拒み、結局その話は流れたそうだ。

 そんなカストロも、2016年に亡くなっている。

モハメド・アリとの不思議な友情。

 モハメド・アリとの関係も、カストロ同様に不思議なものだった。

 アリと猪木は1976年6月26日、日本武道館で3分15ラウンドの「格闘技世界一決定戦」を行っている。

 アリは当時、WBA世界ヘビー級チャンピオンだったが、すでにして世界的にみてもボクサーを越えた存在となっていた。徴兵拒否、王座はく奪、回教徒となりカシアス・クレイからモハメド・アリに改名し――。

「蝶のように舞い、蜂のように刺す」などと言い放つ独特のビッグマウスは、常に世界中のマスコミで取り上げられ、話題になっていた。そして、アリが動けば、どこに行くにもその取り巻きが100人以上くっ付いてくる……というとんでもないVIP扱いとなっていた。

 試合の前段階で、すでに2人はニューヨークと東京で激しい舌戦を繰り広げていた。

 猪木とアリの15ラウンドは、当時「水と油のような試合」と多くの試合レビューで酷評されたが、長い時を経て再評価されるような緊張感溢れる名試合だった。

 後にアリキックと呼ばれるようになる猪木のスライディング・ローキックでアリの太ももの裏側は血栓症となり、アリは入院を余儀なくされた。このことは、アリのボクサーとしての寿命を縮めた一因でもあるともされている。一方アリの有効なパンチは1発だけだったが、猪木の頭には大きなコブができていた。

 どういうわけか、このマングースとハブのような奇妙な死闘の後、2人の間には不思議な友情が芽生えていた。

 それは、同じマットの上で、信じられないほどの恐怖を分け合い戦った者にしか分からない特別な友情なのかもしれない。

アリも猪木も、人生で目指す所は同じだった。

 アリの結婚式には猪木が招待されているし、アリがパーキンソン病を患った後でも、猪木はアリと交流を続け、最後までその不思議で熱い友情は途絶えなかった。

 1990年のこと。サダム・フセインが引き起こした湾岸危機、戦争勃発一歩手前で騒然としていたイラクでは、2人とも自国の人質解放のために現地に赴き尽力した。この時のバグダッドでは1日違いで猪木とアリはすれ違いになってしまったが、1995年4月の北朝鮮の平壌で行われた「平和の祭典」にはアリも参加し、猪木と行動を共にすることができた。

 当時、アリのパーキンソン病はかなり進行していたが、猪木の顔を見るやいなや表情が一瞬で引き締まり、スッとファイティング・ポーズを構えて凄んでみせるほど元気な姿を見せた。病が進行していたアリは、すでに公の場所ではほとんど会話をしなくなっていたのだが、その時の猪木とはしっかり「話した」そうだ。

 ちなみに……この時、猪木の対戦相手として北朝鮮に行っていた米プロレス界のスーパースターであるリック・フレアーは、あの伝説のアリに会えたことを至極光栄に感じていたようだった。記念撮影など公的な場では、終始フレアーはアリを「Sir(サー)」と呼び続け、最大限のリスペクトを示してみせていたので、私も驚いた記憶がある。

 アリは1998年4月に東京ドームで行われた猪木の引退試合にも、病をおしてやって来てくれた。

 そんなアリも、2016年には亡くなっている。

アントニオ猪木は湾岸戦争時に何をやったのか?

 ここでもう一度、猪木の湾岸戦争時の人質解放活動について、説明しておきたい。

 日本の多くの人には、猪木というプロレスラーが起こした非常に突飛な行動に映ったかもしれないが、振り返ってみると、あの人道的活動は本当に偉大な行為だったと思う。

 1990年8月、イラクのクウェート侵攻で始まった湾岸危機・湾岸戦争では、日本人を含む多くの国の民間人が人質になった。彼らは「ゲスト」とまるで客人であるかのように呼ばれていたが、あきらかにイラクがアメリカや多国籍軍からの攻撃に備えるための「人間の盾」だった。

 そこで立ち上がったのが、猪木だった。

 当時、人質になっている邦人の救出に躊躇していた日本政府に不満を抱いた商社マンの夫人たちが、個人的なルートで猪木に救いの手を求めてきていた。結局猪木は、その訴えに一個人として応える形でサダム・フセイン大統領との交渉に臨むことにする。

 当時国会議員だった猪木は、日本政府に頼らず独自のルートで、人質解放への道を切り開こうとしたのだ。そのために、正式な儀式を経てイスラム教に入信し、“モハメド・フセイン・イノキ”と名乗るまでのことをやってのけていた。

1990年、猪木と共に紛争地帯へ乗り込んだ。

 1990年9月、ついに猪木が最初の交渉のためにバグダッドへ乗り込む。

 APのカメラマンは、毎朝バグダッドの街を走る猪木の姿を世界中に配信した。バグダッドでのその猪木の姿は、まだ平和の街の象徴であり得たと思う。

 10月に猪木が2度目のバグダッドに入るとき、乞われて私も同行することにした。

 私のパスポートにはイラクのビザが貼られた。この時のイラク政府はビザの発給を極端に制限していたから、日本メディア全体にとってもこのビザは貴重なものだった。そして、その時点でバグダッドに入れるのはヨルダンのアンマンから出ているイラク航空に限られていた。

 イラク航空の同じ便でイラクの国会議員2人と乗り合わせた。このことが実に幸運だった。

 1人は温厚な紳士然とした人物で、もう1人はピストルをベルトに挟んでいるような武闘派を感じさせる男だった。この時、この2人とイラクにおける猪木の政治的な活動についてさまざまな相談ができたわけである。

戦争を目の前に、スポーツで何ができる?

 イラクの空港に猪木と共に降り立つと、やたらと体の大きい男が歓待してくれた。聞くと、イラクのオリンピック委員会の一員で、猪木とはレスリングを通じての交流があるらしかった。

 イラクのサレハ国会議長とは、9月に続いてすぐに2度目の会談をすることができた。

 ところが、猪木が開催したいと申し込んでいたスポーツによる「平和の祭典」の会場選びがこの時点ではまったく進んでいなかった。

 猪木は、計画が完全に暗礁に乗り上げてしまったと感じたそうだが、ほうぼう手を尽くしているうちのひとつ、芸術省という省庁を訪問すると突然、開催への道が開けることとなった。そこにいた担当大臣の「分かりました」というひと言で、12月のバグダッドでの「平和の祭典」の開催が決まった。

戒厳令下のバグダッドで毎朝ジョギングの猪木。

 この随行時、筆者もAPのカメラマンにならって「バグダッドの街を走る猪木を撮ろう!」と目論んでいた。

 2人で申し合わせて、朝一緒にホテルを出たのだが……猪木にスピードをあげられて、右も左も分からないバグダッドの街中でひとり、大きく引き離されてしまった。すれ違う何台もの車のクラクションが、重いカメラを手にゼイゼイ喘ぎながら走っている私に「ガンバレ!」と応援してくれた。猪木の行き先の当たりをつけながら、もがくように走っていると……サダム・フセインの銅像の前で私を待ってくれている猪木の姿が目に入った。

 猪木は「APとロイターのカメラマンはしっかりついてきたぞ」と言って笑っていた。

猪木が独力で切り開いた「平和の祭典」への道。

 バグダッドでの「平和の祭典」では、サッカーや音楽などの他に、猪木(新日本プロレス)が主催しているのだから当然プロレスもラインナップされていた。

 プロレスではアメリカからバッドニュース・アレンが参加してくれることが決まり、日本側の新日本プロレスからは長州力、マサ斉藤、馳浩、佐々木健介らがバグダッドに入ることになった。

 ところが彼らをイラクへ運ぶチャーター便の交渉がまた難航した。

 日本の航空会社は安全が保障できないことを理由に首を縦に振らなかった。

 そんな中、トルコ航空だけが要請を呑んでくれた。そのチャーター便には、人質となっている人の夫人ら家族46人と、祭典に参加するレスラーと歌手、それに報道陣が搭乗していた。

世界に先んじて、猪木が人質解放の快挙を成し遂げた。

 国際会議場で行われた「平和の祭典」の開会式では、フセイン大統領の息子でスポーツ大臣だったウダイ・フセインが猪木のスピーチを静かに聞いていた。

 12月2日と3日の2日間にわたって開催された「平和の祭典」。サッカーも、音楽会も、プロレスも無事終わった。プロレスが行われた体育館では、まだ正式に解放はされていなかったが36人の日本人の人質が2階席から観戦していた。

 猪木は現地活動の極端なストレスで足が腫れあがってしまい、「延髄斬りができないから」と言って試合こそしなかったが、人質解放に向けて、しっかりとした手ごたえを感じているようだった。

 選手や関係者たちを帰国させるチャーター便がバグダッドの空港を離れる12月4日――猪木は空港まで行ったが、その便には乗らなかった。人質の夫人たちも「夫といっしょに帰るので」と言って、猪木と共にバグダッドに残ったのだった。

 翌5日、日本人の人質の解放がイラク政府からアナウンスされた。

 まず日本人の全36人(他に在留邦人5名も解放)が解放されてから、続いて他の国の全ての人質が解放されたのである。猪木の独力の活動が、日本だけでなく、国際的な快挙を成し遂げた瞬間だった。

 解放された5日の夕刻。日本人の人質だった方々が市内のホテルに集まって、家族と対面した。

 その時、夫人たちが言った。「猪木さん、アレやりましょうよ!」

 そこにいた全員、まさに大歓喜の「1、2、3、ダァー!」だった。

 翌日のバグダッドの空はきれいに晴れていた。

平和への感謝と戦争の恐怖。

 その後、日本政府は邦人を帰国させるための政府特別機をアンマン(ヨルダン)まで飛ばすことを決定した。

 アンマンの空港からJAL便が離陸すると……機内では自然に拍手がわきあがった。そして、すぐさまシャンパンでの乾杯が続いた。

 あの時に全身で思いっきり感じた安全と平和への感謝の念を、私は生涯忘れることができない。

 そして、年が明けると多国籍軍がイラク空爆で参戦。本格的な湾岸戦争が始まったのだ。

(「プロレス写真記者の眼」原悦生 = 文)