カメラのファインダーで彼女を追っていた私は、その瞬間、「落ちた!」と思った。

 ところが、ファインダーから姿を消したはずの彼女は、どういうことか、まだファインダー内にとどまっている。重力を無視したかのような、ちょっと考えられない体勢で。その手には吸盤でも付いているのか。

 こういうひやっとするムーブの後は、そこでパワーと集中力を使い果たし、いずれ落ちてしまうのが普通だ。しかし彼女は、その後もじりじりと苦しい一手をのばし続けていく。信じられない持久力。

 ゴールのホールドがもう目の前に来た。腰を落とし、タイミングを測る。観客が息を飲む。

 ダブルダイノ(両手での飛び付き)でゴールホールドをとらえたとき、歓声は最高潮に達した。12日間にわたった世界選手権。そのなかで、会場がもっとも揺れた一瞬がここだったように思う。

森秋彩、当時は15歳。

 これは8月に東京・八王子で開かれたクライミング世界選手権・女子コンバインド種目リードでの1シーンだ。

「スピードとボルダリングで出遅れていたので、リードではなんとか挽回しなきゃと思って必死に登りました。落ちそうになったところはホールドが届かなくて……。ああいう危ない動きで切り抜けるしかありませんでした」

 彼女の名は森秋彩(もり・あい)。2003年9月17日生まれの森は、この時点でまだ15歳。初の世界選手権参戦で、リード単種目では3位に入り、冒頭の爆発的なパフォーマンスでコンバインド種目も6位。オリンピック代表候補に名乗りをあげた。

2003年生まれの才能が世界を席巻。

 現在の女子スポーツクライミング界には、東京オリンピック金メダル大本命のヤーニャ・ガンブレット(スロベニア)という女王が君臨している。ところが2019年のリード種目で異変が起きた。常勝ガンブレットがワールドカップでは初戦しか勝つことができず、年間ランキングでも2位に終わった。

 ガンブレットにストップをかけた立役者が、日中韓の“03line”、すなわち2003年生まれの若いクライマーたち。韓国のソ・チェヒョン、中国のツァン・ユートン、日本の谷井菜月、そして森。この4人が異変の主役だ。以前から天才少女として注目されていた森は、この世代を代表するひとりである。

 森の世界大会への参戦は今年2019年からだが、国内の大会では、第一人者の野口啓代や、1歳年上で昨年からワールドカップで活躍していた伊藤ふたばなどに勝つこともしばしばで、実力的には彼女らトップ層と肩を並べるものを持っていると見られていた。

 今年、その実力は世界でも通用することを証明したというわけだ。

「世界を舞台にどこまで自分ができるかわからなかったんですけど、世界選手権で自信が付きました。今の自分でも世界のトップと戦えるんだなって」

 それまでは、東京オリンピックは自分にはまだ早い、勝負は次の2024年パリ・オリンピックと考えていた森だが、ワールドカップと世界選手権で手応えを得て、考えが変わったという。

「ここまできたら、東京もねらうしかない」と。

世界大会参戦1年目で年間6位。

 森の今年の活躍は、5月に中国・呉江で開催されたワールドカップから始まった。ワールドカップ参戦3戦目でいきなり3位に入賞。しかも、リードに比べて苦手としているボルダリングで、昨年の年間ランキング1位の野中生萌をも上回っての3位だった。

 7月から始まったリード・ワールドカップでは、初戦3位、第2戦4位と、安定して上位をキープ。その勢いをもって乗り込んだ世界選手権で、冒頭のような劇的なクライミングを見せた。9月には、公式戦ではないが、ドイツで開かれた有力選手の招待コンペでも3位に入った。

 その後はミスが続いてやや精彩を欠き、3位をほぼ確実にしていたリードの年間ランキングは最終戦で逆転を許して6位に終わったが、世界大会参戦1年目の成績としては十分といえるもの。オリンピック代表候補にもなり、野口啓代、野中生萌に次ぐ国内3番目の座を確実にしたシーズンだった。

154cmで小柄、面影はまだ幼い。

「国内の大会は、難しい部分でも技術でカバーできてしまう課題が多いんですけど、世界の大会では、単純にホールドが遠いとか、パワーで解決することを求められる部分が出てくるとか、戸惑うこともありました。でも、やってみて、実力的にまったく不足しているとは感じなかったです」

 こう書いてくると、昇り竜の強いアスリート像が浮かぶが、本人を目の前にすると、そんなイメージはまるでない。身長154cmで、華奢な体つきのため小柄に見え、まだ幼い面影すら残している。

 SEKAI NO OWARIのファンで、愛用のチョークバッグにはいつもバッジを付けているのが印象的。性格的にもおとなしく真面目な感じだ。

結果への欲が空回った時期も。

 その少女の肩に、今、大きなプレッシャーがのしかかっている。

 今年序盤までは、ただただ、「世界の舞台で登ってみたい」という思いでのびのび戦っていたところ、思いのほか世界のトップが近いことがわかり、あまり意識していなかったオリンピックが突然現実的な夢として立ち上がってきた。

 シンプルな「登りたい」というモチベーションが、「結果を出したい」という欲に変わり、しかし、そのメンタルをうまくコントロールする術をまだ知らないために、シーズン後半は強すぎる思いが空回りしてしまったのだという。

 ワールドカップ最終戦となった10月の千葉・印西大会では、指定されたロープのクリップポイントを通り過ぎてしまうというまさかのミスで失格。「集中しすぎていたのか、マークを見落としてしまいました」と振り返る。

 そこに、11月頭に発覚した、オリンピック代表選手選考のトラブルが追い打ちをかける。国際連盟と日本の協会とのすれ違いによって、選考基準の食い違いが生じ、世界選手権で一度確保したはずのオリンピックへの道が閉ざされそうになっているのだ。

 オリンピック出場についてはまだ結論が出ていないため、可能性は残されているが、先行きは不透明な状態に置かれている。

今も純な目でクライミングを見ている。

 オリンピックという大舞台のプレッシャーと、大人の事情の荒波にさらされながらも、自分のクライミングを見失うまいと必死にふんばっている16歳。

 インタビュー中、彼女がふと口にした言葉に、この重圧を克服する光を見た気がした。好きなクライマーはだれかと聞いたとき、韓国のイ・ドヒョンという無名選手の名前をあげたのだ。「しなやかだけどバネがあって、登り方がかっこいい」と。

 ここで、ガンブレットや野口啓代などの有名クライマーの名をあげるのではないところが森らしいなと私は感じた。そういう確立した存在にではなく、彼女はクライミングの動き自体に魅力を感じ、注目しているのだ。じつは森はこのとき、ドヒョンの正しい名前さえうろ覚えであった。

「今の秋彩さんにとっては、とにかく登っているだけで幸せであるらしい。この邪心のなさが、秋彩さんの強さのカギだ。これが失われないかぎり、茨城の天才少女が世界の舞台で活躍する姿を、そう遠くない未来に見ることができるだろう」

 3年前、私は初めて森を取材したときの記事でこう書いたことがある。

 名前もよく知らないクライマーのしなやかな登りに惹きつけられていると聞いたとき、この一文を思い出して少し安心した。今でもこうした純な目でクライミングを見ているのならば、現在の厳しい状況もきっと克服していくことができるだろう。

目が覚めるような鮮烈な登りを。

 11月25日、森はフランスに向けて旅立った。28日から始まるオリンピック予選大会に出場するためだ。とはいえ選手選考トラブルの行方次第では、ここで結果を出してもオリンピック出場はかなわないかもしれない。

 しかし森の立場で今やれることは、結果がどうあれ全力を尽くすことだけだ。むしろこういう状況になったからこそ、成績を気にせずに全力を出し切ることだけに集中できるチャンスなのかもしれない。

 トラブルに揺れるクライミング界。そこに16歳の鮮烈な登りを見せつけて、皆の目を覚まさせてほしいと願っている。

(「クライマーズ・アングル」森山憲一 = 文)