今年1月29日。アンディ・マリーがインスタグラムで2枚の写真を公開した。

 1枚は利き腕の右腕に点滴を受けながら、作ったような笑顔で病院のベッドに横たわる自身の姿。もう1枚は少し衝撃的なレントゲン写真で、右股関節に長いボルトが付いた人工の器具が入っているのが分かる。

「昨日、ロンドンで股関節の手術を受けました。痛みがなくなってくれることを願っています」

 そう綴った投稿には36万もの「いいね!」と、1万8000件近いファンからの励ましのメッセージが寄せられている。

 その半月ほど前。全豪オープン開幕前に行われた涙の記者会見がテニス界を驚かせた。マリーは声を詰まらせながら、股関節の痛みが限界に達している状況を説明した。

「やれることは全てやったけど、痛みが強すぎる。この状況でプレーを続けることはできない」

 苦しい状況の中で臨んだシングルス1回戦で、4時間を超える激闘の末に敗退。「今日が最後の試合だったとしても、鮮やかな終わり方だ」とメッセージを残しており、この試合限りでの引退を覚悟したファンも多かっただろう。

股関節痛で歩くことすら大きな苦痛。

 股関節が痛み始めたのは、世界ランキング1位にいた2017年5月頃だという。

 シーズン終盤に向けて痛みがひどくなり、全米オープンから4大会連続で四大大会を欠場した。年明けに手術を受けたが状況は好転せず、その年の全米オープンは2回戦で姿を消し、年末の世界ランキングは240位まで落ちた。日常生活で歩くことさえ、大きな苦痛を感じていたという。

 今年の全豪オープンを初戦敗退で終え、失意のどん底にいたマリーに救いの手が差し伸べられた。同じような股関節の悩みを抱えながら、手術により復活したダブルスの名手、ボブ・ブライアンの勧めで受けたのが冒頭の手術だった。

 この股関節手術の名医による執刀がマリーの運命を変えることになる。

 痛みが嘘のように消え、再びコートに戻る意欲を取り戻した。3月下旬にボールを打つ練習を再開し、5月にはニック・キリオスと打ち合えるまでに回復。6月にはフェリシアーノ・ロペスと組んだダブルスでツアー優勝を果たす。復帰初のタイトルは完全復活へ向けて着実に歩みを進めていることをうかがわせた。

 7月にはウィンブルドンの混合ダブルスに、元世界1位のセリーナ・ウィリアムズと出場。スター同士のペアは3回戦で敗れはしたものの、力強くショットを繰り出す姿で「聖地」を大いに沸かせた。

ワウリンカとの決勝で粘り勝ち。

 とはいえ、この時点では今季中のシングルス優勝を予想した者はほとんどいなかったのではないか。

 ダブルスよりも動きの負荷は大きく、ましてやマリーの生命線はコートカバー力にある。人工股関節でどこまでやれるのか。英メディアによると、執刀した医師もシングルスのテニス選手を復帰させた例はなかったという。マリー自身、「シングルスとダブルスとでは体への負担が大きく異なる」と話したことがある。

 ところが、マリーは驚くべき回復力を示し、8月にシングルスに復帰。勝ち負けを繰り返しながら徐々に本来の動きを取り戻し、10月中旬にベルギーのアントワープで臨んだのがヨーロピアン・オープンだった。

 1、2回戦はストレート勝ちし、準々決勝と準決勝はフルセットの接戦を制した。そして迎えた20日の決勝。相手は四大大会シングルスを3度制した世界ランキング18位のスタン・ワウリンカだった。

 マリーは強打に押され、第1セットを3-6で落してしまう。第2セットも序盤で先にブレークされた。だが、驚異的なフットワークで球を拾いまくり、ミスを誘いながら挽回してセットを奪い返した。最終セットは競った展開の中、ゲームカウント5-4の第10ゲームで15-40から粘りを見せ、見事なブレークで試合を締めた。

 3試合連続のフルセットで、この日の試合時間は2時間27分。粘り強いマリーが帰ってきた。

9カ月前とは全く異なる涙。

 絶望の淵から這い上がり、シングルスでは復帰後初のツアー優勝。ワウリンカと健闘をたたえ合い、主審と握手を交わしたマリーは込み上げる感情を抑えることができなかった。観客からの温かい拍手に包まれながら、表情を崩して泣いた。ベンチに腰を下ろした後も、顔を伏せてむせび泣いた。9カ月ほど前の記者会見で見せた苦しみの涙とは、全く異なる意味を持つ喜びの涙だった。

 シングルスに復帰後、わずか2カ月という超特急の復活劇。本人もここまでの結果は予想していなかったという。

「今大会はただ、再び激しく戦えるようになりたいと思っていただけだった。だから驚いている。股関節も問題ない。もう痛みはないし、それは最高なこと。痛みがないことで再び戦えるようになり、プレーを楽しむこともできている。キャリアの中で最も大きな勝利の一つになった」

「もうすぐ3人目がやってくるんだ」

 自身にとって記念すべきタイトルだったが、普段から大会に同行する妻キムさんの姿は客席になかった。優勝インタビューで、その理由を観客に明かした。

「うちには小さな子供が2人いるけど、もうすぐ3人目がやってくるんだ」

 そもそも、今大会の出場を決めた一番の理由は「英国から最も近くでやっていたから」。間もなく第3子の出産を迎えるというキムさんを気遣い、ロンドンから飛行機で1時間という近場のアントワープを選んだ。

「家族に感謝したい。妻は僕の復帰のために献身的にやってくれた。僕が闘い続けるためのサポートをね。この数年で家族も増えたし、僕もまたしっかりやっていかないと」

 2017年全仏オープン準決勝など、これまで大舞台で何度も激闘を繰り広げてきたワウリンカも、マリーの復活に温かい言葉を送った。

「僕を含めて、テニス界は全豪の時の記者会見を見て悲しんだ。手術を経て再び戻ってきてくれたことはうれしい。決勝で負けてしまった寂しさはあるけど、またこのようなレベルまで戻ってきてくれたことがうれしい。あなたは素晴らしいチャンピオン。おめでとう」

ビッグ4の宿敵と再びやり合う日を。

 翌日には、11月の国別対抗戦、デ杯の英国代表メンバーに入ったことも発表された。

 地元メディアの期待も高まり、「今の体調が続けば、来年にはトップ10の返り咲きもできる」と予想している。それほどまで、決勝を含めた試合内容は充実していた。

 現在は32歳のノバク・ジョコビッチ、33歳のラファエル・ナダル、38歳のロジャー・フェデラーのトップ3がそれぞれ、多少の浮き沈みはありながらも四大大会のタイトルを分け合う状況が続いている。かつて「ビッグ4」の一角だった32歳のマリーが、再び彼らと互角にやり合う日が来るのも遠くないはずだ。

 マリーは2012年ロンドン五輪と2016年リオデジャネイロ五輪のシングルスで金メダルに輝き、この種目では史上初めて連覇を達成している。来年の東京五輪までに、3連覇を狙えるほど調子を取り戻す可能性も、十分ある。

(「テニスPRESS」長谷部良太 = 文)