注目のバッテリーを擁し、多くの人を魅了する戦いで甲子園準優勝を成し遂げた星稜。林和成監督(44)に、この夏を振り返ってもらい、野球にかける思い、新チームへの期待も聞いた。

 ――夏の甲子園、24年ぶりの準優勝でした

 3年の奥川(恭伸君)と山瀬(慎之助君)のバッテリーを柱に能力の高い選手が集まっていました。甲子園にも4季連続で出場でき、全国の舞台で戦う経験値も十分だった。石川大会の準々決勝以降、苦しい接戦をものにしたことも大きかった。

 グラウンドの選手以外も、勝つために自分のできることを探してベンチワークをしっかりやっていた。会場の雰囲気にも後押ししてもらい、一試合ごとに全員が力を出してくれた。

 3回戦を突破できたのは私自身が監督になってから初めてでした。国体も参加でき、思い出深いチームになりました。

 ――自身も星稜の選手でした

 野球好きの父の影響で、小学校から野球漬けの毎日でした。星稜時代は1年生からベンチ入りさせてもらい、内野手として甲子園に春夏計3回出場しました。2年の時、1学年上の松井秀喜さん(元ヤンキース)と三遊間を組んで甲子園を経験できたのは良い思い出です。

 ――どんな経緯で母校の監督になりましたか

 日本大で野球を続け、卒業後は、関東で働くか、金沢で家業の建設業を継ごうと考えていました。

 そんな時、当時の部長に「チームに戻ってこないか」と声をかけてもらいました。悩みましたが、家族会議で姉が「ここまできたなら野球を頑張りなさいよ」と涙ながらに言ったんです。小さい時から両親は野球をする私につきっきり。親にあまり面倒を見てもらえず寂しい思いをし、おそらく野球が嫌だった姉の後押しは大きかった。

 コーチや部長をしながら、系列大学の定時制で社会科(地歴・公民)の教員免許を取って、2011年に監督になりました。

 ――強豪校の監督は、重圧もあったのでは

 就任当初は思うような成績が出せず、負けるたびに「交代した方がいいのでは」と思い悩みました。

 就任2年目の石川大会決勝は、あと一歩のところで敗戦。試合後は「家に帰ったら、翌日から練習に行けそうにない」と、グラウンド脇で一夜を過ごした。

 その時、恩師の山下智茂元監督にこう言われました。「グラウンドで寝るようになったらお前も一人前だ」と。救われました。気持ちを切り替えて再出発し、翌13年には、監督として初めて、甲子園の舞台に立つことができました。

 ――チーム作りで大切にしているのは

 大事にする言葉は「人間形成の野球道」。野球を通じ、裏表のない素直で誠実な大人に育って欲しいと、グラウンド内外問わず、指導しています。

 また、14年に石川大会決勝で九回裏に8点差をひっくり返して優勝して以来、どんな状況でも笑顔で野球を楽しもうと、「必笑」というスローガンを作りました。これも毎年大切にしています。

 ――選抜大会の後、チームの指導を離れました

 相手選手がバッテリーのサインを盗んだとして相手監督に直接抗議した「サイン盗み騒動」で約2カ月、指導を自粛しました。

 自粛中、色んなことを考えました。「最後の夏まであとひと月。選手の状態はどうか」。焦りました。

 ただ、選手は「監督のために」と自分たちで練習メニューを改善するなど、今まで以上に「大人」になって帰りを待っていてくれました。その成長に素直に感動しました。「ありがとう」と伝えたい。

 ――新チームも秋の県大会で優勝しました

 2年生を中心に想像以上の働きをしてくれた。特にバッテリーの荻原(吟哉君)と内山(壮真君)。内山は遊撃手からのコンバートで慣れない守備位置で大変だと思うが、がんばってくれている。1年の吉田(竣希君)、中田(達也君)、出村(夢太君)も活躍してくれました。

 県大会の5試合で選手たちが課題を見つけたと思います。北信越大会では、さらに強い星稜を見せて、明治神宮大会、そして来年の春の選抜に出場したい。(聞き手・岡純太郎)

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 はやし・かずなり 1975年、金沢市出身。星稜高校では内野手として春夏計3回甲子園出場。1学年上には松井秀喜さん(元ヤンキース)がいる。日本大卒業後、星稜のコーチや部長を歴任し、2011年から監督。社会科教員。精密なノックは選手たちから「神業」と尊敬を集める。