世界一より日本一になる方が難しい。

 レスリング・グレコローマンスタイルの太田忍(ALSOK)と文田健一郎(ミキハウス)は国内で激しいデッドヒートを繰り広げていた。

 文田が2017年世界選手権59kg級金メダリストならば、太田はリオデジャネイロオリンピック同級銀メダリスト。

 ふたりとも世界の舞台では第一線で活躍できるレスラーだったのだから無理もない。

 しかも、太田と文田は日本体育大学レスリング部で2つ違いの先輩後輩で、日々の練習でも切磋琢磨する仲だった。大学卒業後はともに練習の拠点をそのまま母校に置いたので、顔を合わせない日はほとんどなかった。

 以前は同じ国際大会に出場し、現地で一緒に食事をしながら決勝では激しくぶつかり合うということもあったが、いつしかふたりは一緒に練習をしなくなる。筆者が日体大レスリング部に顔を出しても、お互い背を向けるように一定の距離を置き、スパーリングをすることもなかった。グレコローマンスタイル60kg級で東京オリンピックに出場できる者はひとり。

 そうなることは必然だった。

世界選手権3位以内で東京五輪代表に。

 今年の夏になってからふたりのライバル関係に変化が訪れた。

 昨年12月の全日本選手権と今年6月の全日本選抜選手権決勝で文田は太田に連勝し、今年の世界選手権60kg級の日本代表の座を獲得した。カザフスタンで開催の世界選手権で3位以内に入賞すれば、そのまま東京五輪代表の座を射止めることができる。

 一方の太田は全日本選抜後、非五輪階級の63kg級への転向を表明。7月に行なわれたプレーオフを難なく勝ち抜き、同級の日本代表として世界選手権に出場することになった。

 大会初日(9月14日)、太田は準決勝までオール・テクニカルフォール勝ち(8点差がついた時点で試合終了が設立)と絶好調。果たして翌日の決勝でも昨年の世界王者ステパン・マリャニャン(ロシア)を相手にリードを許す場面もあったが、得意のがぶり返しで逆襲し10-4と大差をつけて優勝を決めた。

太田「文田の結果を踏まえたうえで……」

 去夏のアジア大会では圧倒的な強さで優勝を果たしている太田だが、試合後は「やっと世界を獲れた」と安堵の表情を浮かべた。

「去年の世界選手権では優勝を期待される中で負けている。世界の一番を知らない人間だったので、少し遠回りしたけどひとまず良かったかなと思う。世界王者という称号は持っていて損するものではない」

 ただ、話が東京オリンピックに及ぶと、太田は表情を曇らせた。

「今回の優勝はオリンピックに対しては何の意味もないこと」

 前述した通り63kg級は非五輪階級なので、東京にはつながっていない。狙うとするなら、五輪階級の60kg級か67kg級しかないが、翌日(16日)から試合をスタートさせる文田がメダルを獲れば、60kg級という選択肢は消える。

 この時点で太田は判断を留保した。

「文田の結果を踏まえたうえで、自分がどうしていくかを考えたい」

太田「お前が決勝に行ったら、応援してやるよ」

 太田の快進撃を目の当たりにして、試合を控えていた文田は尻に火がついた。

 16日、準決勝まで勝ち上がり、東京五輪出場の内定を得ると、文田はライバルの金メダル獲得がプレッシャーになったことを打ち明けた。

「忍先輩の調子を見ていて、(もし自分が負けて代表権争いが)12月の全日本選手権までもつれ込んだらどうなるかわからないなと思ったので」

 ふたりのライバル関係は複雑。一緒に練習しないからといって、会話をしないというわけではない。文田の試合初日、たまたま顔を合わせた太田と文田の会話。

「俺、優勝したから」

「先輩、見ていました」

「お前が決勝に行ったら、応援してやるよ」

 有言実行。文田が決勝を迎えた大会第4日(17日)。観客席には日の丸を振りながらゲキを送る太田の姿があった。

 それだけではない。決勝でセルゲイ・エメリン(ロシア)を10-5で撃破した文田は決戦直前にエメリンに勝利を収めた経験を持つ太田からのアドバイスと直接指導があったことを打ち明けた。

「グラウンドのローリングがうまいという話を試合前にしてくれました。しかも、エメリンの(技の)かけ方を忍先輩が直々にかけてくれ、『こう来たら、こう切れ』『ここで止まったらダメ』といった細かいアドバイスもくれました。

 そのあと『ハイ、50万円!』とも言っていましたけどね(笑)。もちろん冗談なんですけど、50万円の価値はあったと思います。忍先輩のことだから、この優勝でチャラにしてくれると信じていますが」

太田「もう60kg級に用はない」

 エメリンの好戦的な闘い方は太田のそれに重なり合う。その点は文田にとっても好都合だった。

「忍先輩が僕に与えた影響は大きい。あの人のレスリングはガツガツ来る時は来るし、技を狙ってくるときもある。だから別の選手とやっても、『ここは忍先輩っぽい』と重ね合わせることがよくあるけど、今回はとくにそう感じました。

 そもそも僕はあの人を一番意識してやってきたので、本当にそう感じる」

 試合後、文田がアップ場の日本ブースに姿を現すと、太田は何も言わず文田を抱きしめた。それで十分だった。

「自分もなんか感謝を伝えようと思ったんですけど、言葉が出なかった」

 太田のことを話しながら、文田はいきなり目頭を熱くした。

「なんか忍先輩はすごい温かくて。やっぱり特別なんだなって。忍先輩と会えてよかったなって思います」

 この日、太田は67kg級へ転身し、東京を目指すことを発表した。

「もう60kg級に用はない。67kg級には僕も含めて世界王者が6人もいる。そんな階級はほかにはないのでやる価値はある」

 それぞれの道を歩き始めた太田と文田。

 最強のライバルストーリーは第2章に突入した。

(「オリンピックPRESS」布施鋼治 = 文)