控え室で柔道着に身を包んだ松岡さん。

 糊のきいた道着が様になっている。ところが本人は「柔道の経験者でもないのに、黒帯をつけて大丈夫かな」と、準備していた帯の色に心配そう。

 松岡修造が、パラアスリートと真剣に向き合い、その人生を深く掘り下げていく「松岡修造のパラリンピック一直線!」第6回、今回の対談場所は、日本柔道の聖地・講道館だ。やや緊張の面持ちでビルの上階にある小道場の扉を開けると、2人の柔道家が畳敷きの道場の隅に正座をして待ってくれていた。

 廣瀬悠さんと、順子さん。夫婦でともに前回のリオパラリンピックに出場し、夫の悠さんは初戦敗退で涙を飲んだものの、順子さんは初出場で見事に銅メダルを獲得した。2人はともに視覚障害者で、日本の視覚障害者柔道を引っ張る存在である。

 美しい姿勢で2人が立ち上がり、道場の真ん中に3人が歩み寄る。帯の色などまったく気にしていない様子に松岡さんが安堵したところで、対談がスタートした。

「僕の顔はどのくらい見えてますか」

松岡「僕、ちょっと膝が悪いので、(膝を)崩した姿勢で失礼します。おふたりは視覚障害者ということですけど、いま、実際に目はどのくらい見えているんですか」

順子「(どうぞと悠さんに会話を促され)私は視力が0.08です。私の場合は、視野が欠けていて、真ん中が見えません。だから、真っ直ぐだと松岡さんのお顔が見えないです」

松岡「じゃあ、僕がこっちに行ったら見えますか?(と座る位置を変える)」

順子「はい、見えます。正面でなければ、左も右も。でも、私が視線をずらせば見えるので、そのままの位置で大丈夫です」

松岡「僕の顔はどのくらい見えてますか。表情とかウザさとか、そういうのは伝わってますか?」

順子「そこに顔があって、パーツがあるなというくらい。ウザさはわかりません(笑)」

松岡「先天性ではないと聞いています。いつ頃から視力が低下を……」

順子「高校を卒業してからなので、19歳のとき。膠原病で入院して、そこから半年の間に視力が低下しました」

松岡「高校では柔道をされていたんですね。一番良いときの成績は?」

廣瀬順子(ひろせ・じゅんこ)

1990年10月12日、山口県生まれ。小学校で柔道をはじめ、高校時代にはインターハイに出場。大学1年の時に膠原病を患い視力が低下、一旦は柔道から離れるが、視覚障害者柔道に転向。2014年アジアパラ競技大会で銀メダル。
2015年に悠さんと結婚すると、2016年リオパラリンピックに出場し、女子57kg級で日本の女子選手として初の銅メダルを獲得した。2018年世界選手権で銀メダル。伊藤忠丸紅鉄鋼所属。

順子「インターハイ出場です

松岡「すごい! でも卒業して目が悪くなって、病気で人生が変わっていったのですね」

「命が危ういという経験もしたから」

順子「最初は、視力が落ちても特にショックを受けていなかったんです。というのも、膠原病が治れば視力は元に戻ると言われていたから。でも、実際には退院の時に『今の視力は戻らないです』と言われてしまって。ただ、その時はもうなんだか自分の中で受け入れていて、『やっぱり』という感じでした」

松岡「やっぱり? 『先生の嘘つき!』じゃなかったんですか」

順子「入院が長引いて、ICU(集中治療室)に入っていた時期もあったんです。命が危ういという経験もしたから、目が悪くなったことよりも、元気になれた喜びの方が大きかった。それでショックをあまり受けなかったのかもしれません」

松岡「でも、見えていた世界が急に見えなくなったんですよね。最初から見えなかったんじゃなくて、途中から見えなくなる方がショックは大きい、という話をよく聞きます」

順子「そうですね。前向きではいられたんですけど、退院後にまた大学に入り直して、周りの子がすらすらと勉強しているのに私は教科書が読めなかったり、アルバイトもしてみたいけどできなかったり、あと車の免許を取ったのに車が運転できないとか、いろいろなことを諦めないといけない悲しさはありました」

松岡「文字も読めなくなったんですか」

順子「文字はパソコンで22ポイントぐらいに大きくすると読めるので、教科書もぜんぶ自分でそのくらいに拡大コピーしたものを学校の授業に持ち込んでました。けど、目が見えづらくて困ったときは仲良くなった友だちがすごく助けてくれました。辛いこともありましたけど、大学時代が一番楽しかったかな」

松岡「普通の人より時間が掛かってしまうのですね……。

 でも、障害を持ってから、順子さんはまた柔道を始めるわけですよね。なぜ始めよう、と思ったんですか」

順子「小学5年で柔道を始めて、高校まででやりきった感があったんです。ぜんぜん遊んだりもしていなかったので、違うことがしたくて辞めたんですけど、目が悪くなってからはむしろ諦めることの方が多かった。一生懸命取り組めるものとか、夢中になれるものがなくて、もう一度柔道を始めたら以前のように一生懸命になれるかなと思ったのがきっかけです」

松岡「自分の後ろ向きな心を変えられる可能性が柔道にあると思ったんだ。でも、パラスポーツには柔道以外にも色々あるじゃないですか。新しいものにチャレンジしようとは思わなかったんですか。その方が新鮮で面白いかもしれませんよ」

順子「私、スポーツが元々苦手で、すごく運動神経が悪いんですよ」

松岡「エッ、そうなんですか? でも柔道もやっていて、インターハイにも行ってるじゃないですか(笑)」

順子「走ることとか球技が本当に苦手で。ただ、力だけは強かったので、柔道なら自分でもできるかなって思ったんです」

松岡「それで柔道をまた始めて、視覚障害者柔道もすぐに強くなっていったんですか」

順子「いえ、最初は体力も落ちていたし、ついていくのに必死でした。初めて視覚障害者柔道の合宿に行ったときもアザだらけになって、楽しいというよりはしんどかったです」

「就職活動中は迷いがあって……」

松岡「でも辞めなかった」

順子「就職するときはちょっと迷いました。大学生の時はしんどいけど柔道ができることが楽しくて、国際大会での成績など何も考えずに楽しくやれていたのですけど、柔道で就職するとなると責任も伴いますし、応援して下さる方のためにも頑張らないといけない。昔みたいにしんどくなるんじゃないかって……」

松岡「それは伊藤忠丸紅鉄鋼(道着の胸部分に貼られたスポンサーのワッペンを見て)に入社する際の話ですか」

順子「いえ、大学を卒業してすぐ東京の生命保険会社に入ったんですが、その時にすごく迷いました」

松岡「一度転職をされているんですね。以前の保険会社に勤めていたとき、パラリンピックのイメージは持たれていましたか? 柔道を続ける決定打になったのはどんなことでしょう」

順子「パラリンピックを目指す、ということで就職させてもらったので、その大きな目標に向かって続けていました。就職活動中は迷いがあって、柔道か一般職かどちらかの道を選ぶとなったとき、ちょうど柔道の合宿があったんです。そこでみんなと一緒に柔道をしたのがやっぱり楽しくて、まだ辞めたくないなと思ったのが決め手です」

松岡「それが何年前の話ですか」

順子「リオパラリンピックの2年前だから、今から5年ほど前です」

松岡「じゃあリオまですぐだったんですね。リオには伊藤忠丸紅鉄鋼の社員として出てますけど、その時はもう旦那さんと会ってます?」

順子「2015年の10月から伊藤忠丸紅鉄鋼でお世話になっていて、悠(はるか)さんとは2013年に1度会ってます」

松岡「旦那さんのこと、『はるかさん』とお呼びするんですね……。お待たせしました(笑)。悠さんの話を聞かせて下さい」

 それまで順子さんが話す様子を柔和な表情で見守っていた悠さんが、松岡さんと改めて向き合う。松岡さんが最初に訊いた質問は、やはり視力のことだった。

松岡「悠さんは今、視力はどれくらいなんですか」

悠「左目の視野は中心がほとんどなくて、この辺(目の両端を指で指し)がちょっと見えるくらい。右目の方は多少中心が残ってます。だから矯正すると視力が0.1はあるんですけど、緑内障という病気で視野が欠けちゃっているので左目はほぼ見えていないです」

松岡「じゃあ、僕のことは今見えてますか」

悠「わかります。ウザさについても多少は(笑)」

松岡「ハハハ。悠さん、いいですね! 柔道をするときはコンタクトを入れるんですか」

悠「いや、裸眼です。コンタクトがいけないわけではないんですけど、一応相手の存在は見えているので。視覚障害者柔道はお互いに組んだ状態から始まるので視力はそこまで必要ありません」

松岡「悠さんが緑内障を患ったのは何歳の時ですか」

悠「僕は17歳のときに。目が見えづらくなってきたのでコンタクトレンズをつけようと思って眼科に行ったら緑内障と診断されて。それでも柔道を続けていたんですけど、ある時、眼圧が一気に50くらいまで上がったんです。普通の人が10から15くらいなので明らかにおかしい。緑内障というのは目の圧が上がって、視神経を圧迫して失明に至ることもある病気なんです。それで柔道を引退して、即入院。手術をしました」

「親に相当迷惑をかけたんです」

松岡「悠さんも小学生の頃から柔道をやられていたと。小さいころの夢は何でしたか」

悠「自分も柔道でインターハイに出場していて、愛媛県ではわりと強豪の柔道部だったんですよ。ただ、1つ上には井上康生(現男子日本代表監督)さんがいたり、1つ下には鈴木桂治さんがいて、僕らの世代は谷間と言われていたんです。だから正直、オリンピックまでは目指していなかった。上と下が強すぎました(笑)」

廣瀬悠(ひろせ・はるか)

1979年7月17日、愛媛県生まれ。小学校で柔道をはじめ、高校時代にはインターハイに出場。その後緑内障を患い、25歳で視覚障害者柔道を始める。2008年北京パラリンピックに出場し、男子100kg級で5位。
2015年に順子さんと結婚。2016年リオパラリンピックに出場し、男子90kg級9位。伊藤忠丸紅鉄鋼所属

松岡「自分には無理だと」

悠「はい。とはいえ、そこそこ強かったので関東の大学にも誘われたんですけど、やはり緑内障という病気があまり柔道と相性が良くないというか。手術をして目の圧を下げているので、投げられた衝撃で目が破裂する可能性が高くなるんです」

松岡「破裂? その可能性は今もあるわけですよね? それは……辞めた方が良いですよ!」

悠「そうなんですよ。医者にもそう言われます」

松岡「それなのになんでまた、一度は辞めた柔道に戻ってきたんですか」

悠「目が悪くなった時期に、反抗期がありまして、目が悪くなったことの、行き場のない怒りがあったんですね。体も動かしてはいけなくなったので、力の持っていき場所がなくて。それで家の壁には穴がこう……」

松岡「壁に怒りをぶつけた」

順子「今も空いているんですけど、ウサギが入るくらいの大きさです」

松岡「それは相当大きいね(笑)。『どうしてオレなんだ、何でオレが』って感じで?」

悠「そうです。それで、親に相当迷惑をかけたんです。だから、それからしばらく経ってから、なにかで恩返しがしたいなと思ったんです。そんな折にふと、親がパラリンピックに興味を持って、『応援に行きたいな』と言ったんです。それが北京大会の前でした」

松岡「でも、その頃はもう柔道を辞めてましたよね。家で暴れた時期にご両親がそう言ったんですか」

悠「いや、順を追って説明すると、家で暴れていた時期があって、それからもっと目が悪くなったときに盲学校に通い出したんです。その時の担任が陸上でパラリンピックに出た経験を持っていて、家庭訪問に来たときにその体験談を親に話したんです。居間に柔道のトロフィーが並んでいるのを見て、視覚障害者柔道というパラリンピックの競技がありますよって」

松岡「そこで息子の可能性に気づいたんだ。でも、目が破裂する可能性もある。心境は複雑ですね」

悠「両親がすごく期待してくれて、北京なら近いし、応援にも行けると。それまで柔道に打ち込んできたことを知ってますからね。それで僕も親孝行がしたいと思って、もう一度始めたんです」

松岡「家で暴れて迷惑をかけたし、そのぶん恩返しがしたいと。家族の笑顔を取り戻そうとしたんだ。自分のためにやったわけではないんですね」

悠「そうですね、僕はいつも、自分のためにはできないので。人のためならできる」

松岡「どういうことですか。奥さんは自分のためにまた始めたんですよ」

悠「自分のために努力するのが苦手なんですよ。自分の実力はだいたいわかっているので、努力してもそこまではムリ、というのがわかっている。でも、今だったら会社にアスリート雇用で入っているし、仕事だから練習できる。親のために、と頑張れるし」

松岡「人のために頑張ろうと思うと、それが力になる。でも、自分のためだと諦めちゃうんですか」

悠「自分の才能の限界はわかるし、努力してもそこまでというのがわかっている。けど、周りの人が応援してくれるとそれが力になって、今こうして頑張ってます」

松岡「周りの人は悠さんを信じて応援してくれているわけでしょ、やれるぞって。でも、自分が自分を信頼していないような……なんだかおかしいよ悠さん」

悠「でも、実際にそうなんですよ。僕は限界がわかっているけど、周りはもっとできる、できると言ってくれるから、だからやってるんです」

松岡「そうなんですか……あまりいないタイプですね」

 そう言うと、松岡さんが少し考え込む表情を見せた。悠さんの競技への思いを見きわめるには、もう少し対話が必要なのだろう。悠さんは、真面目な顔をして、松岡さんとの会話に、さまざまな変化球を混ぜ込んでくるタイプ。松岡さんは、そのボールをしっかりキャッチできるのだろうか?

<!--StartFragment -->構成・小堀隆司<!--EndFragment -->

(「松岡修造のパラリンピック一直線!」松岡修造 = 文)