52歳のカズはさすがに別格だとしても、40歳を過ぎて現役を続ける選手は、以前に比べ、それほど珍しいものではなくなっている。

 とはいえ、30代も終盤にかかると、同年代で現役の仲間は少なくなる。否が応でも、自身のキャリアが晩年に入っていることを思い知らされる。

 今年5月で38歳になった松井大輔もまた、そんな選手のひとりである。

 午後の練習の前にミーティングがあるので、それまでに。そう約束して始まったこの取材の後も、松井はいつものように横浜FCの練習グラウンドで汗を流す。チームメイトには、もはやひと回り以上も年の離れた選手が少なくない。

「35歳を超えると、未知数ですよね。(アテネ五輪で対戦したダニエレ・)デロッシもローマを辞めましたし(ボカ・ジュニオルズへ移籍)、やっぱり、ヨーロッパでは厳しいのかな……、って思うと、僕も38歳になったんで、頑張らないと(笑)」

 20年ほど前、華麗なテクニックと多才なアイディアを操るこのファンタジスタは、すでに同世代の先頭を走る存在だった。18歳の松井は、鹿児島実業3年のときに第78回全国高校サッカー選手権大会で準優勝。鹿実を卒業後は、当時J1の京都サンガに加入すると、1年目からリーグ戦22試合に出場した。

 1981年生まれの松井は、すなわち「谷間の世代」のひとり。だが、なかなか所属クラブでポジションをつかめない同世代の仲間を尻目に、いち早くその才能を開花させていたのである。

越境した鹿実で遠藤保仁に出会う。

 しかし、そんな世代屈指のタレントにとっても、2学年上の「黄金世代」はまぶしかった。

「(1999年の)ワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)で、黄金世代が準優勝したのは見ていました。稲本(潤一)くんや、(小野)伸二くんは(1995年の)U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)にも出ていたし。だから、ただ彼らを追いかけるだけというか、すごいなっていうイメージでしか見ていませんでした」

 京都出身の松井が、あえて鹿実へ越境入学した理由のひとつには、黄金世代の存在があったという。

「僕は中3のときに、稲本くんとかと関西選抜で一緒にやっているんですが、そのときは衝撃を受けましたね。(年齢が)2個しか違わないのに、(能力的に)まったく違った。サッカー選手は自分よりうまい人が身近にいて、技術もそうだし、いろんなものを真似して吸収していくことが大事だと思っていたので、鹿実を選ぶときも、誰か見本になる人がいないかと、探しに行ったのを覚えてます」

 そこで出会ったのが、遠藤保仁である。

京都で試合に出ることだけを。

「ヤットくんは、パスとか、FKとかの技術もそうだけど、ゲームを読む力がすばらしかった。鹿実のときから、ずっと飄々とやっていましたね」

 しかしながら、世代をけん引していたはずの松井は、同世代の精鋭が集まるU-20日本代表にほとんど呼ばれていない。一度国内での練習試合に参加したきりで、2001年ワールドユースや、そのアジア予選にも出場していないのである。

 のちに松井は、その当時を振り返り、「あまり試合に出ていない選手もいたから、『オレに合わせろよ!』っていう傲慢さみたいなものがあった」と話していたことがあるが、19、20歳のころの松井は、よくも悪くも自分ありき。もちろん、本音を言えば、「(U-20代表に)入りたいのは入りたかったですけど」、それほど年代別代表に強いこだわりがないのも確かだった。

「そのころは、谷間の世代がどうだとか、ワールドユースで負けた(グループリーグ敗退)とか、自分的にはどうでもいい話で。ただ単に、(頭にあったのは)京都で試合に出るという、そのことだけ。始まったばっかりのプロとしてのキャリアを、しっかりと積み重ねていくことしか考えていませんでした」

 その言葉通り、松井は着実にキャリアアップしていく。

A代表、とりあえずは入ったけど。

 2002年シーズンには、U-21代表としてアジア大会で銀メダルを獲得すると、京都では天皇杯優勝。にわかに注目を集める新鋭は、2003年に初めてA代表にも選出され、同年フランスで開かれたコンフェデレーションズカップに出場した。

 いわば、同世代の先陣を切る形でのA代表入り。だが、「自分のことしか考えていなかった」という松井にしてみれば、「世代がどうとかは関係なく、単純に上の人たちとやるのがすごく楽しかった」のだという。

 だがその一方で、22歳の松井にとっては、A代表は厳しい現実を突きつけられる場でもあった。

「とりあえずは入ったけど、(試合に出ても)何にもできないし、代表に選ばれて練習だけやっているという感じでした」

 当時のA代表は、黄金世代をはじめ、松井より上の世代の選手層が厚いばかりか、チームを率いていたジーコは、積極的に新戦力を試したり、メンバーを入れ替えたりするタイプの監督ではなかった。メンバーを固定してチームの熟成を図る手法のなかでは、“国内組”の22歳が、既成の序列を崩すのは極めて難しかったのである。

アテネは自身を売り込むための場。

「当時は、(A代表の)MFのほとんどが海外でプレーしているなかで、僕は(A代表に)呼ばれたり呼ばれなかったり。ジョーカーとして(試合の終盤に)出て、何かやれることはあるかもしれないけど、っていうくらいの感覚でした。

 でも、上の人たちを追い抜くほどのレベルに、僕はまだ達してなかったんだから仕方がないとも思っていました。代表でポジションを取るためには、海外に行かなければいけない。そこで活躍しないと勝負にならないんだって」

 焦りにも似た感情を募らせていた松井は、だからだろうか、2004年アテネ五輪に出場したときも、恐らく他の選手たちとは少々異なる姿勢で臨んでいた。

 石川直宏ら、ワールドユースでの屈辱を知る選手たちにとって、アテネ五輪はリベンジの場。しかし、松井は「まったく我関せずでした」。

「まずはグループリーグを突破して、上位へ行きたい。そういう気持ちはみんな出ていたとは思います。でも、僕は自分の性格的にも、特に若いときは自分だけが頼りだったし、周りのそういう、リベンジのような雰囲気は感じていませんでした」

 A代表でポジションを奪い取ることの厳しさを思い知らされていた松井にとって、アテネ五輪は自身を売り込むための絶好の場だったのだ。

「僕にとってはステップアップのための舞台でしかなかった。実際、アテネを終えて(2004年夏に)フランスへ行くことになるので、そういう意味ではよかったし、自分としては、“早く海外へ行くためのオリンピック”っていう位置づけでした」

ル・マンで輝くが、代表では……。

 2004年、フランスのル・マンに移籍した松井は、1年目から主力として活躍。2008年にはフランスの古豪、サンテティンヌへの移籍を勝ち取るなど、ステップアップも遂げている。とりわけ、ル・マンで出色の働きを見せた2006〜2008年ごろは、松井のキャリアにおける最も華やかなときだったかもしれない。

 だが、それでもジーコが築いた序列を崩すのは、簡単ではなかった。

「2005-06シーズンあたりは、確かに調子はよかった。だから、選んでほしいなっていう強い思いはありましたけど……」

 でも、と言って、松井は言葉をつなぐ。

「(2006年ワールドカップのメンバーから)落ちた時点で、次は絶対に選ばれたいっていう思いが強くなりました」

南アW杯で輝いた谷間の世代。

 果たして、松井の願いが成就するのは4年後のこと。迎えた2010年ワールドカップは、松井個人にとってはもちろん、谷間の世代全体の歩みにおいても、ハイライトと呼ぶにふさわしい大会だったのではないだろうか。

 ワールドユースから9年、アテネ五輪から6年。かつては、「谷間の世代とか、ワールドユースで負けたとか、どうでもいい話」だった松井の意識にも、不思議と変化が生まれていた。

「2006年からの4年間、レギュラーじゃなかった時期もありましたけど、最後には(ワールドカップのメンバーに)選ばれた。で、ワールドカップに出てみたら、『あ、自分と同い年の選手が多いな』と(笑)」

 この大会、日本はグループリーグ3試合と決勝トーナメント1回戦の全4試合をすべて同じ先発メンバーで戦っているが、そのうち、1981年生まれの選手が4人。ワールドユースやアテネ五輪をともに戦った1982年生まれも加えれば、全11人中5人が谷間の世代だった。

 黄金世代と比較され、ずっと低評価を受けてきた世代が多くを占めたチームは、大会前の低評価を覆し、決勝トーナメント進出。それまでの主力選手が調子を落としたり、大会直前に戦い方を変更したりと、苦しい状況にあったチームを谷間の世代が救った。そう言ってもいいだろう。

自分たちのことが分かっている世代。

「高い評価をされることもなく、弱い弱いって言われていたからこそ、自分たちも反骨心じゃないですけど、見返してやろうと頑張れた。闘莉王も言っていましたけど、『オレらは下手くそなんだから、下手くそなりにやろう』と。そんなふうにみんなが一致団結して、まあ、当時はそれしか策がなかったのかもしれないけど、そのなかで最大限のものが出せたんだと思います」

 松井が当時の戦いを振り返って、続ける。

「僕たちの世代は、すごく強い個性はなかったかもしれないですけど、それを補うだけのチームワークがあり、チームのピースとしてそれぞれのポジションでしっかり仕事をこなせるヤツらがいっぱいいた。自分たちのことを分かっている世代、だったのかな、と思います」

駒野のPK失敗に松井、阿部も涙。

 この大会のハイライトとして、そして、谷間の世代のハイライトとして、とりわけ印象的なシーンがある。

 パラグアイとの決勝トーナメント1回戦。120分間スコアレスの激闘を繰り広げ、PK戦の末に日本が敗れた直後のことだ。

 日本の3人目のキッカーを務めたのは、駒野友一。だが、駒野の右足から放たれたシュートは、無情にもクロスバーを叩いた。僅差の勝負を分けたのは、両チームを通じて唯一となるこのPK失敗だった。

 敗戦の責任をひとりで背負い込み、泣き崩れる駒野。そこへ近寄り、小刻みに震える背番号3を両脇で支えていたのが、松井と阿部勇樹だった。

 そのとき、1981年生まれの同級生3人が並んでいたのは、もちろん、たまたま近くにいたから、ではない。

「駒野とは、小6の関西選抜のときからの付き合いだし。阿部ちゃんにしても、関西選抜と関東選抜がすごく仲がよかったので、小6から知っている。その後も、アンダー(年代別日本代表)でずっと仲がよかったメンバーでした。だから、あそこで僕ら3人が揃った。そういうメンバーが隣にいて寄り添っていたっていうのも、あのチームの強みだったのかな、とは思いますね」

ライバルが横にいてくれる。

 南アフリカでの激闘から、すでに9年以上が経過した。

「ワールドカップの後は燃え尽き症候群みたいになってしまい、ボーッとしちゃって、その時期はちょっともったいなかった」

 松井はそう言って苦笑する。飽くなき成長を求める姿勢は、20年前から変わっていないが、ふと周りを見渡すと、スパイクを脱ぐ同世代の仲間が多くなった。

「さみしいですけどね。でも、まだ続けている選手がいるので、それは自分のモチベーションになるし、支えにもなる。いい意味でのライバルが横にいてくれるっていうのが、今はうれしいです。自分もあと何年できるか分からないけど、できるだけ長くプレーしたいとは思っています」

リベロ、おもしろかったです(笑)。

 年齢を重ねるなかでは、自然とプレースタイルにも変化が生まれてきた。

「32歳くらいから、自分でドリブルしていくとか、個人の能力で局面を打開していくとか、自分ひとりではできないことが多くなってきた。そうなると、やっぱり考える力が必要になってくる。そこでまた、サッカー選手としての違う人生が始まった、みたいな感じです」

 かつては、マークする相手をもてあそぶことに楽しみを見出していたかのようなファンタジスタが、今ではボランチやリベロを務めることまである。

「僕がリベロっていうのは、サッカー界ではちょっと話題になったんで、おもしろかったですね(笑)。ホントはそれがずっと続いて、横浜FCにまた違うサッカーが生まれていたら、よかったんですけど」

 松井はそう言ってニヤリと笑うと、「難しかったですね、やっぱり」とつけ加えた。

 しかし、さすがにリベロはともかく、背番号22が中盤の底でパスをさばく姿は、もはやニッパツ三ツ沢球技場では当たり前の光景になりつつある。

「おもしろいサッカー人生を歩ませてもらっているなって思います。僕は純粋にサッカーを楽しみたいし、今が一番楽しいです」

 プレースタイルは変わった。意識も変わった。

 だが、今も松井は、恐らく谷間の世代を引っ張る存在であり続けている。そのことだけは、20年前からずっと変わってはいない。
 

(「「谷間の世代」と呼ばれて。」浅田真樹 = 文)