(14日、高校野球 関東一6―5熊本工)

■熊本工・野田大地選手

 中3だった3年前、「上のおばあちゃん」が亡くなった。

 実家の隣に住む野田洋子さん(当時83歳)は、僕のひいおばあちゃんと仲良しだった。隣とはいっても、10メートルほどの急斜面の上に家があるから「上のおばあちゃん」と呼んでいた。

 姉と僕と弟を、とてもかわいがってくれた。自分ではあまり飲まないのにヤクルトを買っていて、よくもらいに行った。

 思い出すのは、毎朝掃除をしている姿。登校する僕に「大ちゃん、おはよう」と、くしゃっとした笑顔をいつも向けてくれた。おばあちゃんの笑顔を見ると元気が出た。

 2016年4月16日未明。震度7の地震が、僕たちが住む熊本県西原村を襲った。揺れの直前に目が覚めた。あまり記憶はないけれど「家がつぶされる」と思ったのを覚えている。

 玄関が岩でふさがっていたので、窓から裸足で逃げた。畑で一夜を過ごした。大勢が避難していく。血だらけの人が運ばれていくのも見た。

 でも、上のおばあちゃんは避難して来なかった。倒壊した自宅の下敷きになって、亡くなった。

 その2日前。14日にも強い地震があった。その夜、おばあちゃんは「一人暮らしでは心配だから」と僕の家に泊まったのに。次の日は「もう大丈夫だろう」と自宅に帰っていた。実は15日の昼過ぎ、おばあちゃんから「昨日、ありがとうって言っといて」と電話があって、話したばかりだった。

 1カ月半の避難所暮らしが始まった。

 野球道具は持ち出せなかった。酪農を営む両親も、牛舎が全壊するなどしたため、仕事にかかりきり。野球を続けられなくなる可能性もあった。

 でも、チームメートらが道具を貸してくれたり、送迎をしてくれたり、家に泊めてくれたりした。なんとか地震の2週間後、野球を再開することができた。

 「いつ余震がくるだろう」という不安も、野球をしていると忘れられた。「僕も死んでもおかしくなかった。野球をすることどころか、生きていることが幸せ」だと今も感じる。

 あれから3年。背番号14をつけて、甲子園に来ることができた。西原村はまだ復興の途上だ。実家がある集落は、地震前には30軒ほどあったけど、土地の造成工事などもあって、まだ5~6軒しか帰ってこられていない。

 その西原村から、大勢の人たちが熊本工に寄付をしてくれた。「村を代表して、自分にできることを甲子園で発揮したい」と臨んだ試合。三塁コーチとして声を出し、腕を回し、笑顔を最後まで貫いた。

 「笑顔で仲間を元気づけたかった」。上のおばあちゃんが、僕にそうしてくれたように。(内田快)