『フランス・フットボール』誌は、夏のこの時期になると特定のテーマを決めて短期集中連載をおこなう。この夏のテーマは「移籍」である。世紀の高額移籍や大きな論議を呼んだ移籍、さらにはタブーを覆した驚くべき移籍など、ロベルト・ノタリアニ記者がエポックメーキングとなった10の移籍を取り上げて語っている。

 第1回はレアル・マドリーとバルセロナが激しい争奪戦を繰り広げた「ブロンドの矢」アルフレッド・ディステファノ。第2回はセルティックとレンジャースの両方でプレーしたモー・ジョンストン。そして第3回となる7月9日発売号で取り上げているのが、フラメンゴから北イタリアの小クラブ・ウディネーゼに移籍した“白いペレ”ことジーコである。

 当時のイタリアでは、数年前から外国人選手が解禁となり、世界中から大物が次々とセリエAに結集していた。ただ、外国人枠は「2」しかなく、誰もが望むビッグクラブに行ける状況でもなかった。

 それにしても、どうしてウディネーゼだったのか。今日では考えられない移籍はなぜ起こったのか。ノタリアニ記者が解き明かす。
監修:田村修一

世界的スター選手が小さな町にやってきた!

 いったいどれぐらいの人々がそこを埋め尽くしたのか……。

 正確な数は誰にもわからなかった。ただ、1983年7月26日のウディーネの雰囲気を描写しようとすれば、それは歩道を埋め尽くした1万人を超える老若男女を問わない人々の熱狂であり、昔を知る老人たちは北イタリアはフリウリ地方の中心都市であるこの街が、かつてこれほどの歓喜に包まれたことは一度としてなかったと証言するのだった。

 節度ある性格で名高いこの地の人々が、サッカーで驚くほどの歓喜に酔いしれている。より正確に言えば、たったひとりの選手に心の底から一喜一憂している。

 フィアットの最新モデル・オープンカーに乗り、満面の笑みで立ち上がって観衆の声援に応えている男の名は「アルトゥール・アントゥネス・コインブラ」といった。そう、“ジーコ”という名で知られている世界的なスター選手である。

 ジーコこそは、その年のウディネーゼの新規外国人選手であった。

 ブラジル代表の10番であり、ミシェル・プラティニやディエゴ・マラドーナと並ぶスーパースターが、前季のリーグ6位という成績が1950年代後半以来の快挙になるという、ごく平凡なクラブにやって来た。

 ウディネーゼのティフォジにとって、さらに言えばフリウリ地方のすべての人々にとって、それはこの上ない喜びであった。

ジーコのためなら国を捨ててもいい、と市民。

 クラブはイタリアサッカー協会との力比べに勝利したのだった。

 政治的な混乱はほとんど国家レベルにまで及び、ジーコ加入による国中の混迷は数週間も続いた。

 街の中心にある9月20日広場は、「ジーコか、それともオーストリアか?」と書かれたプラカードで埋め尽くされた。それはジーコを獲得できないのであれば、フリウリ地方行政府はイタリアという国から離れ、かつて帰属していたオーストリアに再び戻ることすら辞さないという、市民たちの強い意思表示であった。もちろん大げさなもの言いではある。だが彼らはそれだけ本気でジーコを望んでいたのだった。

 すべては1983年春、ウディネーゼの若きスポーツディレクターであったフランコ・ダルチンがブラジルに飛び、ジーコとコンタクトをとったときに始まった。

 彼はクラブの会長で、イタリア屈指の家電産業のオーナーでもあるランベルト・マッツァから全権を委任されていた。

 マッツァはそれまでにもウディネーゼに希望を与えていた。

 1982年にはブラジル代表DFのエジーニョを獲得。さらなるブラジル人スターを求めて、その矛先は当初ジュニオールへと向けられた。だが、彼とダルチンの関心は、あるブラジル人代理人(ジウリオドリ)の仲介を経て“白いペレ”獲得の可能性へと変わっていったのだった。

弱小地方クラブが、なぜスター選手を獲得?

 マッツァは当時のイタリア産業界の風雲児であった。

 マネジメントやマーケティング、財政規模などにおいて彼は革新的だった。彼はダルチンに60億リラ(現在の約940万ユーロ。日本円にして約12億円)を託し、6月1日にはジーコが所属するフラメンゴとの合意に達した。さらに1週間後には、ジーコ本人がウディネーゼに移籍することを表明した。

 イタリアに大きな激震が走った。

 いったいウディネーゼのようなクラブが、どうしてそれほどの資金を得ることができたのか?

「われわれが支払ったのは35億リラで、残りはロンドンに本拠を置くグルーピングリミテッド社が、ジーコの肖像権を得ることを条件に資金を負担したんだ」と、ダルチンは事情を説明した。

ジーコの移籍金には国のお金も入ってた?

 だが、イタリア最大の労働組合CGIL(イタリア労働総同盟)のゼネラル・セクレタリーであったルチアノ・ラマは、ダルチンの言葉を信用してはいない。

「マッツァはジーコのために大金を投じたが、資金の出所には疑問がある。資金調達のために彼は数千人に及ぶ『ザヌッシ(マッツァが所有する家電メーカー)』の労働者たちを利用したのだ(名目上の失業者を大量に作り出し、国庫から多額の資金を引き出した)!」

 実際にはマッツァが自身のポケットマネーで補填して移籍を実現させたようなのだが、議論は沸騰していくばかりであった。

 イタリアサッカー協会は、すでに実現していたものも含め、幾つかの移籍について合法性を調査した。その中にはジーコのウディネーゼ移籍とトニーニョ・セレーゾのローマ移籍も含まれていた。

ドタバタ劇があり、所属はわずか2年間に。

 結局、協会はこのふたつの移籍について、無効という結論を下した。

 もちろんウディネーゼもローマも、クラブはもとよりサポーターも強く反発した。

 問題は国会でも取り上げられ、最終的な結論はイタリア・オリンピック委員会(CONI)に委ねられることになった。

 CONIに指名された3人の法律家が下した結論は「合法」であった。

 こうしてジーコは、晴れてウディネーゼの歓迎パレードにその雄姿を現したのだった。

“白いペレ”はフリウリ地方に2シーズンしか滞在しなかった。

 しかも2年目は、ケガと税金トラブル、レフリーへの暴言による長期出場停止で満足にプレーしていない。だが、それでも最初のシーズンの彼の雄姿は、ウディネーゼのティフォジたちの瞼に強く焼きついている。

あれから30年以上経った今も……。

 デビュー戦となったアウェーでのジェノアとのゲームでは、ジェノアを5対0と粉砕した。

 彼が決めた2点目のフリーキックには、ジェノアのサポーターからも称賛の拍手が起こった。それはサンシーロでのミランとのゲームでも同じだった。さらにカターニャでは、やはり見事なフリーキックを決めた後に、スタジアム全体にジーココールが巻き起こった。

 このシーズン、ジーコは19得点をあげてミシェル・プラティニに次ぐ得点ランキング第2位でリーグ戦を終えた。膝のケガさえなければ、プラティニを上回っていたのは間違いなかっただろう。

 それから30年以上がたった今も、ウディーネの人々はジーコを忘れてはいない。

 2017年の彼の再訪には、フリウリ地方全体が大きな熱狂に包まれた。

 彼らの胸に生き続けているのは、地方の小クラブでも世界的な大スターを獲得することができた良き時代の思い出であった。

(「フランス・フットボール通信」ロベルト・ノタリアニ = 文)