今年6月、偉大なセッターがひっそりとユニフォームを脱いだ。

 久光製薬スプリングスで5度のリーグ優勝を果たした古藤千鶴だ。

 久光製薬は過去8年連続でリーグのファイナルに進出しており、そのうち5度優勝というまさに黄金時代。その一時代を、36歳になった昨シーズンまで、司令塔として支え続けた。

 長崎女高では主にミドルブロッカー。高校卒業後、当時チャレンジリーグ(現在のV.LEAGUE DIVISION2)に所属していたPFUブルーキャッツに入団し、セッターに転向した。そして2009年、久光製薬に移籍した。

 その移籍が、古藤にとって大きな転機になった。中でも、2012年に久光製薬の監督に就任した中田久美前監督(現・日本代表監督)、2016年に就任した酒井新悟監督との出会いが大きかったと振り返る。

「久美さんと出会って、バレーボールの奥深さや、セッターの人間性の重要性といったことをすごく知ることができましたし、新悟さんと出会って、それがより深く、広くなったと感じます」

とことん考えさせられる環境の中で。

 特に久光製薬の変革の年だった中田監督就任1年目の2012/13シーズン、古藤は司令塔として、主将として、中田監督のチーム作りの中核におり、その分、苦悩は絶えなかった。毎日が、とことん考えさせる中田監督の“問い”との戦いだった。

「苦しかったですね、本当に(苦笑)。『なんでこうなの?』というふうに疑問を投げかけられて、そのつど自分でなんとか答えを見つけていったという感じでした」

“圧倒的強さ”を目指していた中田監督は、いくら勝っても「内容がダメ」と満足しなかった。

 その中で、古藤はそれまでの自分にはなかったセッター像にたどり着いた。

ガッツを見せながらも陰に徹する。

「陰に徹するということですね。それまでは、自分が先頭に立って、陰にならずに、ありのままの自分で勝負していた部分がありました。でも久光のスパイカー陣を活かすには、セッターは、リーダーシップを取りながらも、陰に徹しないといけない。自分の中でそれを見つけるのがすごく難しかったですね。

 言葉をバーッと積極的に発したり、ガッツを見せたりしながらも、それだけじゃなく、日頃はみんなのサポートに回る。自己犠牲と言うんですかね……。その両方をやるというのがすごく難しかったですね」

 例えば、自分の時間を削ってでも、誰かの話を親身になって聞く。自分の体がつらい時でも、スパイカーの個人練習に付き合ってトスを上げる。

「いかに他のプレーヤーに気持ちよくプレーをしてもらうか、というところに、すごく力を使うようになりました」

 古藤が悩みながらたどり着いたその献身は、周囲からの信頼につながり、長きに渡って第一線でコートに立つ礎となった。

リオ五輪に招集されず落ち込んだ。

 その姿勢は代表に行っても変わらなかった。2015年、古藤は代表に招集され、ワールドカップに出場した。大会途中からは控えに回ったが、懸命にチームメイトをサポートし、若き司令塔・宮下遥(岡山シーガルズ)や19歳だった古賀紗理那(NECレッドロケッツ)の活躍を引き出した。

 日本代表やオリンピックは、古藤の子供の頃からの夢だった。

 中田監督は久光製薬で、普段の練習から常に“世界”を意識させていたこともあり、古藤のオリンピックへの思いもより強くなっていた。

 しかし、ワールドカップの翌年、リオデジャネイロ五輪が開催される2016年、古藤は代表に招集されなかった。

「めちゃめちゃ行きたかったです、オリンピック。あそこが行けるチャンスだったというか、私はタイミング的にあそこしか行けるチャンスはなかったから、合宿にも行けずに終わって、すごく落ち込みましたね」

口うるさいおばさんと思われても。

 しかし一方で、「リオのオリンピックに行けなかったから、ここまでできたんだと思う。リオに行けていたら、そこで終わろうと思っていましたから」とも言う。

「あの数年前から、物事にはタイミングがあるとか、人生には流れがあるということを、自分自身感じていました。リオに行けなかったことはショックだったけど、だからと言って、もう人生終わりや、というわけではなかったし、何かしら別のことを頑張りなさいという運命なんだろうなと思いました。

 そこからは完全に、久光のために、というのが第一になりました。私、“チーム愛”は誰にも負けない自信があるんです。そこは自分自身の原動力でしたね」

 チームのためにはセッターの世代交代も必要と考え、若手に伝えられることをすべて伝えようとした。

「口うるさいおばさんだと思われていたと思います」と苦笑する。

 その上で出番が来た時のために、夏場はトレーニングで自分を追い込むことも怠らなかった。

 酒井監督は、「鉄人ですよ。トレーニングでもなんでも率先してやる。若い選手がそれに負けてちゃダメなんですけどね」とベテランを讃えていた。

“チーム愛”が引退決断の理由に。

 若い選手たちは、「お母さん」と慕った。リベロの戸江真奈は、「みんながアスさん(古藤)に頼っていた部分がありました。コートの中では、『どこまででも走ってつなぐから、どんなボールでもいいから、頑張って(サーブレシーブを)上げてね』と言ってくれた。コートの中でも外でも、1人1人のことを本当によく見てくれていました」と言う。

 ただ、古藤の“チーム愛”は、引退を決断する一因にもなった。

 ここ数年、古藤は葛藤を抱えていた。チームはセッターの世代交代をはかろうと、夏場に若手に経験を積ませ、2016年以降、リーグの開幕セッターは中大路絢野や栄絵里香が務めたが、リーグの中で苦しい状況になると古藤が先発に復帰し、最終的にファイナルは古藤で戦うというシーズンが続いていた。

セッターの世代交代は難しいから。

 いちアスリートとしては、「この歳まで第一線で出続けさせてもらって、頼ってもらえるのはありがたいし、それが自分の役割」とやりがいを感じていた。

 その反面、チームの将来を考えると、「これじゃあまずいんじゃないか」という思いが年々強くなった。

 セッターの世代交代は難しい。勝ち続けているチームはなおさらだ。特に久光製薬は、主力メンバーが2012年のリーグ優勝時からあまり変わっていない。

 長岡望悠は過去2シーズン、怪我やイタリア移籍でチームを離れたが、新鍋理沙、岩坂名奈、石井優希という軸は不動で、古藤とスパイカー陣の間には、長い年月をかけて築き上げられた、勝つためのあうんの呼吸があった。どんなに技術の優れたセッターでも、そこに取って代わることは容易くない。スタッフ陣も、古藤がいるとどうしても頼ってしまう。

 本来なら、他のセッターが独り立ちして、自身は控えの立場で支えるという形になってから引退したいと考えていた。

「長岡の復帰の場に自分もいたい」

 それにもう1つ。昨年12月にイタリア・セリエAで左膝前十字靭帯損傷の怪我を負って帰国した長岡のことも心残りだった。

「長岡の復帰の場に、自分もいたいなというのはすごく思っていました。でも、自分が居続けることで、他のセッターの出番がなくなってしまう。ここが区切り時なのかなと、(引退を)決めました」

 最後と決めて臨んだ2018/19 V.LEAGUE DIVISION1の東レアローズとのファイナル第2戦は、思いがあふれた。

「今思えば、雑念でしかなかったんですけど……。この場にこうやって、このメンバーで立てるのは最後、みんなに対してやれることが最後になるから、みんながいいパフォーマンスをできるように、という思いでコートに立ったんですけど、その感情が悪く作用してしまいました。

 結局はシンプルに、勝てばいいのに、思いが先行してしまって、プレーに勢いがなく、結果としてみんなの良さも引き出せていませんでした」

ゴールデンセットで我に返った。

 その試合に久光製薬はフルセットで敗れ、第1戦と合わせた勝敗は1勝1敗となり、試合はゴールデンセットにもつれ込んだ。そこで古藤は我に返った。

「いやいや、ここで負けるわけにはいかんだろうと。もう頭でいろいろ考えずに、自分の本能で、シンプルに、勝つために何をするのかだけ。チームもそういうふうにまとまれたと思います」

 久光製薬はゴールデンセットを奪い、リーグ連覇を達成した。

 その日、6セットを戦い抜いた36歳は、「今日は本当にタフでしたね」と、疲労困憊の体を引きずりながらも、心地よさそうに笑っていた。

「あの時は、自分の役割を果たせたな、という思いでした。自分の役割は、チームを勝たせることだと思っていたので。やるからには、スタッフや選手が託してくださっている期待に応えたいという思いがあったし、家族も、自分が結果を残すことで誇りに思ってくれていたので、そこは根性を見せられたかなと思います」

自立した選手になるためのお手伝いを。

 今は、ずっと離れて暮らしていた夫と一緒に過ごしながら、指導者になるための勉強も始めている。

「トップチームでずっと勝ち続けさせてもらったセッターって、なかなかいないと思うんです。私は自分に技術があるとはまったく思わないんですが、自分しか経験していないことが多いと思うので、それを若い選手たちに伝えて、おこがましいですけど、自立した選手になるためのお手伝いができたらいいなと思っています」

 人を輝かせるために磨いてきた心と体を、今後は次世代の育成のために、またおおいに活かしてくれるに違いない。

(「バレーボールPRESS」米虫紀子 = 文)