松岡修造が、パラアスリートと真剣に向き合い、その人生を深く掘り下げていく「松岡修造のパラリンピック一直線!」。第5回のゲストは、ボッチャの廣瀬隆喜さんだ。

 対談は、廣瀬さんと松岡さんがボッチャの対戦をしながら、松岡さんが気になったことを廣瀬さんにどんどん聞いていくスタイルとなった。話には母親の喜美江さん、スポーツアナリストとして戦術や動作分析に携わる渋谷暁享さん、それに多方面でアスリートのマネジメントやサポートを行っている三浦裕子さんの“チーム廣瀬”も加わって、にぎやかな様子。脳性麻痺を患っている廣瀬さんは、自分なりの合理的な動きを見出し、アンダースローでの正確なスローイングで日本のエースとなった。

 そして……。

 松岡さんは母親・喜美江さんに向き直ると、ためらいがちにこう切り出した。

松岡「隆喜さんの障害は、先天性のものと伺っています。生まれつきですか」

喜美江さん「そう。予定日より2週間早かったんです。体重は3154gあって大きかったけど、陣痛がそのときなかったのが気になっていたんです。後で聞くと『陣痛がないのは赤ちゃんが酸欠状態になっていたんじゃないか』って……。私にとっては初めての子でしたから、最初は何も気づかなかったんです」

松岡「ちょっと違うなと思ったのは」

喜美江さん「生後6カ月くらいになってもずっと、手をグーにしてたんです。今の子ってわりと手を開いて生まれてくる子が多いじゃないですか。だからそれで気になって、病院に行って聞いたんですけど、最初はこんなもんですと。でも心配だからまた聞きに行って、それほど気になるなら今度はリハビリの方へ行って診てもらって下さいと。そこで……脳性麻痺がわかったんです。たしかにハイハイも普通とは違って、なぜか仰向けに這っていましたからね。普通は腹ばいじゃないですか。これは弟ができた時にわかったことですけど、お腹にいたときも、蹴っ飛ばす力が弱かったと思います」

廣瀬隆喜(ひろせ・たかゆき)

1984年8月31日千葉県生まれ。先天性の脳性麻痺で、四肢体幹機能障害を抱えている。養護学校の中学部でビームライフル、高等部で車いす陸上に打ち込み、その後ボッチャに出会う。始めて4年で日本ボッチャ選手権で初優勝し、これまでBC2クラスで7度王者に輝く。2008年北京(個人、団体ともに予選敗退)、2012年ロンドン(個人2回戦敗退、団体7位)、2016年リオとパラリンピックに3大会連続出場し、リオでの個人戦では準々決勝敗退で7位入賞、団体戦で銀メダルを獲得した。西尾レントオール株式会社所属。

高校時代、父子で泣きながら会話を。

松岡「ショックでしたよね。脳性麻痺だ、と言われたときは」

喜美江さん「私もショックでしたけど、主人の方がショックを受けてしまって……。でも、親としては生まれた子をとにかくしっかりと育て上げなければならないし、障害もあるのだからしっかりと面倒を見ないといけない。そこで気持ちを切り替えました。父親と相談しながら、できうる限りのフォローをしてあげよう、と」

松岡「幼いころの隆喜さんは、人と自分がどう違っているのかなんて、わかりっこないですよね。でも、成長していく過程でなにか自分は違うぞ、と。そう感じることが増えていったんですか」

廣瀬「確かに四つん這いのときも、手は『グー』でした。あと小っちゃい頃は手すりを親指を使わず、手で挟んで持ったりしていましたね。自分には障害があるんだ、とはうすうす気づいてました」

松岡「もとから車いすだったんですか」

廣瀬「最初は杖をついたりして歩いてました」

喜美江さん「小学校は普通学校に通っていましたし」

松岡「体を動かすのは好きだったんですか」

廣瀬「やりたい気持ちはあったんですけど、普通学校に通っていたのでどうしても健常者にはついていけない。運動会でもハンデをつける感じなんです。50m走でも自分だけは25m地点からスタート。積極的には取り組むことができなかった感じです」

松岡「でも、陸上をやっていたんですね」

廣瀬「中学になってから特別支援学校に進んで、中学3年間はビームライフルという射撃をやりました。陸上は高校からです」

松岡「根本には、健常者にも負けたくないという気持ちがあるんですか」

廣瀬「負けたくないというよりは、やるからには結果を残したい、1位を獲りたいという気持ちでやってました。陸上を始めたときも、ボッチャを始めたときも、やっぱり頂点を獲りたいと」

松岡「パラリンピアンの方たちってみんな、スポーツの壁を乗り越える以前に、さまざまな困難にぶつかってきているじゃないですか。だから人として強いし、本当にすごい、と僕は思うんですけど、隆喜さんが感じた壁はどんなことでしたか。『何で俺が……』って、最初は思ったでしょ」

廣瀬「以前、高校生くらいの時かな、たまたま父親と2人でいたことがあって。どういう経緯でそういう話になったのかは忘れてしまったけれど、父が涙を流しながら僕に、『こういう体の子供にしてしまって申し訳ない』と言ったんです。僕は、『生まれたのは誰のせいでもないし、気にすることはないよ』って答えたんですけど、お互い泣きながらの会話でしたね。

 だけど、この障害が僕にとって大きな壁か、というとそういう意識はなくて、お風呂に入る時には多少の介助は必要ですが、日常生活でほとんど不便を感じることはないんです。周りの助けや車椅子などいろいろなサポートを受けていることもありますが、障害を障害と感じずに暮らせているのが本当のところです」

「ボールをカーブさせることもできるんですか」

松岡「確かにこうして話していると、どこに障害があるの? って思ってしまうんです。でも、お母さんは大変だったでしょ。ここまで来るのに色んなことがあったと思います」

喜美江さん「いえいえ、あっという間です。ほんとにあっという間(笑)」

廣瀬「ハハハ」

松岡「嬉しいのは、障害を乗り越えるとかよりも、こうやって前向きに生きて、今こうしてひとに幸せを与えていることかもしれませんね。そういう息子さんを見て、どうですか」

喜美江さん「そうですね。嬉しいです。(小声で)誇りに思います」

松岡「ですよね。……なんでゲーム中なのにこんな話をしているんだろう(笑)。すいません、ゲームに戻ります。廣瀬さん、負けませんよ!」

 2人はまたスローイングボックスに戻った。松岡さんが投げ、廣瀬さんが投げ返す。ジャックボール(目標球)にボールが当たるたびに、戦況はめまぐるしく変わる。松岡さんも徐々にボッチャのルールに慣れてきた様子だ。

松岡「やっとこのボールを扱う感覚というのがつかめてきました。このボールの柔らかさと重さがちょうど良いんですね。さっきのボールはうまくいったなあ。ジャックに僕のボールがくっついて、廣瀬さんからは見えないんじゃないですか。アナリストの渋谷さん、これは僕がかなり有利ですよね?」

渋谷「見えないですね。特に廣瀬選手はサウスポーだから、ラインが取りづらい。ただ転がすだけだと直接ジャックが狙えないので、赤を弾くか、あるいは載せるか、飛び越える手段を考えないといけません」

松岡「ボールをカーブさせることもできるんですか」

渋谷「できます。けど、日本人はそこまで上手じゃありません」

松岡「改めて聞きますけど、廣瀬さんはなぜ、こう腕を何度も振ってタイミングをとるんですか」

廣瀬「なんだろう。1回で構えて投げるよりは、何度か振った方がリズム感が出るので。じゃあ、投げます」

ボールの位置で絶妙な駆け引きが……。

 廣瀬さん、第5投。青ボールは松岡さんの赤ボールを見事に弾き飛ばし、ジャックボールの近くに。形勢逆転。松岡さんの第5投は、一番近い青ボールに当たったものの、青ボールはほとんど動かず……。

松岡「ああ、惜しい。ちょっと当たったくらいではびくともしないんですね」

渋谷「今、2-0で青(廣瀬)の優勢です。あと残り1球ずつです」

松岡「次は僕ですね。これが最後か。この状況(ジャックボールを隠すように青ボールが2つある)はどうしようもなくないですか。相手のボールを押すくらいしか……」

廣瀬「あとは転がして上に載せるのもありですよ」

渋谷「これだけ密集していればね」

松岡「ようするに、ボールが転がっていって、相手のボールの上によっこいしょ、と載るわけですか。そのよっこいしょスローには回転が必要なんですか」

渋谷「どちらかというと、力加減の方が重要です」

松岡「でもはっきり言って、それはピンポイントで投げる技術があった上での話でしょ。まあでも、一応チャレンジしてみます」

 松岡さん、狙いに狙ったラスト1球は……惜しくもジャックボールを逸れて後方に転がっていった……。

松岡「アハハ。絶対に無理だとわかっていたから、悔しくありません。いや……やっぱり悔しいな。これ、当たりそうな気がするから面白いんですね」

 松岡修造、無念の敗戦……。2人は挨拶を交わす。試合は終わったが、対談はまだまだ続いていく。
                          (以下次号/構成・小堀隆司)

(「松岡修造のパラリンピック一直線!」松岡修造 = 文)