女子ワールドカップが開幕した。開幕戦では地元フランスが韓国を4対0と完膚なきまでに粉砕し、悲願の初優勝に向けて力強いスタートを切ったが、FIFAランキング10位のブラジルも、大会のたびごとに優勝候補の一角に名を連ねる存在である。そのブラジルの絶対的なエースがマルタである。

 ブラジルは彼女とともに戦い続け、アテネ(2004年)、北京(2008年)両五輪で銀メダル、中国ワールドカップ(2007年)でも決勝に進んでいる。マルタ自身も史上最多となる6度のFIFA世界最優秀選手賞(2006~10年、2018年)を獲得し、女子サッカー史上最高の選手と称えられている。

『フランス・フットボール』誌6月4日発売号は、女子ワールドカップのガイドと銘打って地元開催の大会を大々的に特集している。その中でエリック・フロジオ記者によるマルタのインタビューを掲載している。5度目のワールドカップ出場となるマルタが、貧困から這い上がった波乱万丈の半生を語った。

監修:田村修一

ブラジルの貧困層から生まれた。

 彼女がサングラスをかけて走るのは、スターである自分を意識しているからではない。手術した目を太陽光線から保護するための、必要に迫られた措置なのである。6度のFIFA世界最優秀選手賞受賞。にもかかわらず、《女王マルタ》はまったく気が置けない。ワールドカップに向けて合宿がおこなわれているテレゾポリスのグランジャ・コマリー(ブラジル代表のトレーニングセンター)で、早朝の1時間のランニングの後、マルタがトレーニングジムで取材に応じた。

――ブラジルでも最も貧しい地域に生まれながら、どうやって女王と呼ばれるまでになったのでしょうか?

「話すと長いわよ(笑)! 出身は北東部のアラゴナス州で、貧しい乾燥したところだった。生まれた街はドイス・リアショスといって人口は1万2000人ほど。母はそこで毎朝5時から夕方5時まで働いていた。だから私はほとんどの時間を祖母と過ごしていた。そこにはいとこがたくさんいて、ほとんどが男の子だったから、当然彼らの関心事はたったひとつ――街頭でサッカーをすることだけに向けられていた。それが彼らの唯一の楽しみだった。

 私も6~7歳になるころには、仲間外れにされたくなかったから自然とサッカーをするようになったわけ。すぐに自分がへたくそではないこと、男の子とも対等にできることがわかった。彼らの方が年上で身体も大きかったけど、自分は十分にやっていけるし将来性もあると感じた。サッカーでこの街から出ていくことができる、世界中を旅して見識を広め、経済的に家族を助けることもできると思い描くようになった。実際にとても若いときから、その夢を実現するようになったわけだけど」

神はどうして私に才能を与えたのかと。

――そうはいってもいとこたちと遊びでサッカーに興じるのと、育成組織のあるクラブに入るのは全く別のことでしょう?

「9歳で学校に通いはじめてその機会が得られた。それまでは母が学費を払えなかったから、公立の学校にも行っていなかった。それで10歳のときに学校のフットサルチームに入ったの。

 女子はハンドボールのチームしかなくて、興味がなかったしやりたいのはサッカーだった。男子のチームにうまく入ることができたけど、大会に行って耳にしたのはほとんどが否定的な言葉だった。どの大会でも女の子は私だけで、好意的には見られなかった。サッカーは男のスポーツだから、女の子にはやる資格がないと言われるのは悲しかった。『プレーする資格がないのならば、どうすればもっとうまくなれるの?』と叫びたかったし、神はどうして私に才能を与えたのかとも思った。ほとんどの時間、ピッチ上の罵詈雑言に耐えるのに気を使っていたわ」

他チームの反対で大会から追放。

――チームメイトたちはあなたをどう扱っていましたか?

「最初はあまり気にしていなかったけど、だんだんと対戦相手の悪口に感化されるようになった。自分たちが攻撃されているように感じて、私とプレーするのを快く思わないようになった。多くは否定的で、気にしていないのはごく少数だった。

 だから私も気を使って、試合前の着替えはトイレの中でしていたし、コーチの指示を聞くのでも、男の子たちが着替え終わるまではロッカーの中に入っていかなかった」

――しかし彼らに認めさせたわけでしょう。

「それは私ひとりではなかったから! そのチームでは(男友達の)ベトと私のふたりで違いを作り出していた。彼は素晴らしい選手でクラッキだった。アラゴアスを離れて別のところでプレーするチャンスもあったのに、家族と別れるのが嫌でどこにも行かなかった。私たちは同時にライバルでもあった。

 チームも素晴らしくて参加したほとんどの大会で優勝した。それが他のチームの嫉妬心を煽って……。地方選手権に2年連続で出場した後、あるチームの監督が、女子選手である私が試合に出続けるなら大会をボイコットするといいだした。

 登録されていた女の子は私一人だけで、多数派が勝つのは当然だから、私は排斥され出場できなくなった。

 それが子供時代の私のもっとも悲しい出来事。

 そのころは私も12~3歳になっていて、自分が最もやりたいものを取り上げられてしまったってことを理解していたから」

「サッカーは男のスポーツだから止めなさい」

――そうした差別にどう向き合いましたか?

「当時の偏見は今日とは比べ物にならなかった。女の子にだってプレーする資格はあるのに、親は子供のために戦わなかった。

 私は極端な男性社会の中に身を置いていて、しかも近所の誰もが顔見知りの小さな街に育ったからさらにややこしかった。道で知り合いに出会うと、母はよくこう言われたみたい。

『どうしてあの子にサッカーを止めさせないのか。サッカーは男のスポーツだから、ハンドボールをするように言うべきだ』

 ってね。

 ただ、母は仕事で手いっぱいで私をコントロールすることができなかったし、私は私で母の許可など得ずに勝手にプレーしていたから。子供心にも理不尽な運命を受け入れる気にはなれなかった。それに『神よ、どうしてあなたは使いようがないかもしれない才能を私に授けたのですか?』と、思わずにはいられなかったから。

 何かがうまくいっていない。それは私が悪いのではなくて、人々のメンタリティに問題がある。そう思うようになって、そのパラダイムを転換させることが私の目的になった。
間違っているのは彼らの方で、私ではないと。神は耐えられないほど重い十字架を人に背負わせないでしょう」

生きるために、子供ながら何でもした。

――それではもうひとつの障害であった貧困はどう克服しましたか?

「父が母のもとを去ったのは私がまだ1歳のときだった。私は本当に最底辺の暮らしの中で育った。家族全員に食事が満足にいきわたることなどまずなくて、どうしたらこの暮らしから抜け出せるかを巡って、母と兄はいつも激しく口論していた。

 私はといえば、自分にできることが何かあるとずっと考えていた。できることは何でもやった。アイスクリームを売ったり、市場でも働いた。荷物も運んだ。家族を助けるために、少しでも金になればと思っていたけれども、自分が最も優れているのはサッカーをプレーすることなんだとあるときに気づいた。

 だから常に世に出ていく機会を得る望みを捨てなかったし、サッカーで人生を変えたいと願っていた。神のおかげでその機会を得て、私は障害を克服して成功することができた。悪くないでしょう」

最初は、ずっと裸足でプレーしていた。

――最初にスパイクを履いたのはいつですか?

「フットサルのチームメイトだったベトの祖父から贈り物として貰ったのが最初だった。

 学校のリーグから排斥されて普通のサッカーをやるようになったけど、芝生でプレーするためのスパイクを持っていなかった。

 覚えているのは男の子たちが練習の準備をする間、ピッチの端に裸足で座っていたことだった。ベトの祖父が私のところにやって来てこう言った。『これを君にあげよう。贈り物だ』と。もの凄く嬉しくて、さっそく履いてみたら2サイズも大きかった。彼は私にこう尋ねた。『サイズは大丈夫かな。大きければ別のものに替えよう』。でも私は、彼がスパイクを持って行ったまま戻ってこないことを心配してこう答えた。『いえ、大丈夫。ピッタリよ』と。新聞紙をつま先に詰めて、サイズをこっそり合わせて履いて、それから本当にボロボロになるまでずっと履き続けたわ」

14歳。成功への第一歩。

――14歳のときリオでクラブチーム「バスコ・ダ・ガマ」のテストを受ける機会を得たのが、長い冒険の始まりでしたか?

「その話を聞いたとき、即座に『これに賭ける!』と叫んでいたわ。何の保証もなかったけど、少なくともチャンスは得た。車での移動は3日間続き、到着してからテストの知らせを受けるまでその地で1週間待った。でもテスト初日に女性ディレクターから『あなたはぜひ残って欲しいと思っている』と言われて本当に嬉しかった。それが成功への第一歩だった」

――わずか14歳でそんなチャレンジをしなければならないことに恐れはなかったですか?

「人生最大のチャンスと思っていたから、恐れはまったくなかった。ずっと望んでいたことだし、夢を実現するために必要なことでもあった。大都市に出て女子チームで毎日トレーニングを積む。それこそ私が当初から求めていたことだった。

 それにテレビでしか見たことがないリオという街にも大いに興味があった。あまり深くは考えなかったし、興奮して胸がいっぱいだった。車で旅した3日間はほとんど眠れなかった。通過した街をすべて記憶に留めようと、ずっと標識に目を凝らしていた。

 それは本当に素晴らしい経験で、私の人生を根底から変えたし、これから先の未来にも自信を与えてくれた。

 その後、17歳でブラジルを離れスウェーデンに行ったけど、そのときも少し似たような感じだった。アラゴアスからリオに出たのは、ヨーロッパに行く前に自信を得るための最初の一歩だった」

テストの時、GKに顔面に当てて得点した。

――当時のあなたのプレースタイルはどんなだったのでしょうか?

「とにかく前に行くのが好きで、よく相手を挑発した。特にスピードを利用したプレーが好きだった。俊敏でスピードがあり――今もそうだと思いたいけど――テクニックにも自信があってシュートも悪くはなかったはず(笑)。主に左足を使ってプレーしていたわ。

(「バスコ・ダ・ガマ」での最初の)テストのときは集中していたから誰とも話すことなく、持てる力のすべてを見せたかった。思い出すのは最初にシュートを打ったとき、ボールがGKの顔にぶつかって、そのままゴールの中に倒れこんだことだった。私は小さくて痩せていたから、周囲の女の子たちが私を見て、『この子はいったい誰なの?』と驚いていた。

 チームに入った当初は知り合いがひとりもいなかったから、いつもすみっこでじっとしていた。質問されたときだけ答えてほとんど誰とも話さず、《野生児》ってあだ名をつけられた」

ブラジルより、フランスより、スウェーデン!?

――しかしバスコでの経験は長くは続きませんでした。

「チームに入ってわずか1年半で、会長が女子チームの廃止を決めてしまった。最初のころの月給は400レアル(約90ユーロ)だった。そのわずかな額でリオで暮らしながら、ほんの少しだけれど母に送金もしていた。

 チームが消滅したとき、私はU-20ワールドカップのためにカナダに遠征していた。そのころには選手たちとも仲良くなっていて、そのうちのひとりだったリュドミラが自分のチーム(ベロオリゾンテのクラブチーム「サンタクルス」)に誘ってくれた。スウェーデンへの移籍が決まるまでそこにいたわ」

――スウェーデンにはどういう経緯で行くことになったのでしょうか?

「2003年のアメリカワールドカップ準々決勝でスウェーデンに敗れた(1対2)とき、ウメオIKの会長が私のプレーを見て興味を持ったみたい。それからスウェーデンのテレビ局がアトレチコ・ミネイロのドキュメント番組を撮った際に、私のことも少し取材した。

 スウェーデンのクラブ幹部から電話がきたときは、最初はペテンだと思って相手にしなかった。スウェーデンがどこにあるかも知らなかったし。でも何度も電話があって、彼らが真剣であることがわかり、私も話を聞いて納得することができた」

――今ではスウェーデン国籍も取得しています。

「英語よりスウェーデン語の方が流ちょうに話せるの(笑)。スウェーデン行きを選んだのは人生で2番目に大きな決断だった。そこからトップレベルのアスリートとしての生き方がはじまった。進歩したと思うし、高いレベルのサッカーを経験して、次のステップへと繋げることができた」

“サッカーの女王”と呼ばれて。

――フランスのクラブチームならどうですか? 一度も移籍の機会はなかったのですか?

「オファーは何度も受けたわ。リヨンとパリ・サンジェルマンとは話をしたけど合意には至らなかった。近年のフランス女子サッカーの進歩は目覚ましい。投資も充分だし、ワールドカップを開催するのが何よりの証拠でしょう」

――リヨンのジャンミシェル・オラス会長は、アレックス・モーガンは誘惑したがあなたを誘惑したことはないとツイッターで呟いています。

「ツイッターはあてにならないから(笑)。実際、去年も話をしているし。アメリカのリーグ中断期間中にフランスでプレーするのも可能だと思ったけど、条件面で折り合いがつかなかった。目の手術もそうだったけど他にもやるべきことがあって、結論としてフランスには行けなかっただけ」

――最後になりますが《キング・ペレ》の国で、サッカーの女王と称されていることをどう思っていますか?

「人々が親しみを込めてつけてくれたニックネームだと思っている。それ以上は深く考えないことにしているわ」

(「フランス・フットボール通信」エリック・フロジオ = 文)