ロシアフィギュアスケート界の重鎮タチアナ・タラソワへの取材は、3月の世界選手権の前後に行われた。

 普段は国内外で開催される大会やイベントで忙しく飛び回っているのだが、ちょうど週末はモスクワ郊外にあるダーチャ(セカンドハウスや別荘のようなところ)で過ごしているとのことで、近隣のカフェで話を聞くことになった。

 中心部から西へ車で1時間。指定の場所はルブリョーボ・ウスペンスコエ・ショッセという有名な街道沿いにあった。政府高官や実業家など社会的地位の高い者が邸宅を構える超高級エリアだ。近くにプーチン大統領の公邸もある。

 カフェは自然派食材を謳った明るくて感じのいい店だが、駐車場にはベントレーやマイバッハなどの高級車がずらりと並んでいる。店内を見渡すと野党の有力議員で、先の大統領選にも出馬したグリゴリー・ヤブリンスキーが店の一角に陣取っている。土地柄、客層はやんごとない人物ばかりのようだ。

「で、あなたは何を聞きたいのかしら」

 タラソワは約束の時間ぴったりに現れた。個室に迎え入れる際、毛皮のコートをお預かりする(ロシアではマナー上、女性のコートを脱がせたり着せたりするのは男性の役目なので)。「これがかの有名なタラソワ先生の毛皮のコートか……」と感慨深いものがあり、ハンガーにかける手が震える。そっと手の甲でなぜて、感触を確かめてみる。

「で、あなたは何を聞きたいのかしら」

 背後から尋ねられ、はっと我に帰る。そうだ、毛皮のコートについて聞きにきたわけではなかった。どこのブランドなのかとか、何着持っているのかとか。すでに席に着いて雑誌のバックナンバーをめくっている彼女に、取材の趣旨をあらためて説明する。多士済々、さまざまな選手がひしめき合うロシア女子の現状をどう見ているのか、今シーズンを総括してほしいと。

「すべての選手は唯一無二の存在」

 平昌五輪で金、銀メダルを獲得したアリーナ・ザギトワとエフゲニア・メドベデワ。シーズン途中、思うような結果が出せず、もがき苦しんでいた2人の姿はどう映ったのか。また、メドベデワの移籍についてもぜひ聞いてみたい。エリザベータ・トゥクタミシェワの復活の理由、ソフィア・サモドゥロワなど新たな才能の登場、エテリ・トゥトベリーゼ率いるジュニア選手たちの来季シニアデビューで勢力図はどう変わるのか──。

 詳細はNumber PLUS本誌で読んでいただくことにして、インタビューでとくに印象に残ったのは「すべての選手は唯一無二の存在」という言葉だった。みんなちがって、みんないい、のだと。

 ジャンプが得意な選手、表現力が豊かな選手、皆それぞれに個性があり、それぞれに合った特別なプログラムがある。与えられたプログラムをパーフェクトに滑り切ること、それこそが一番大切なことであって、他の選手と争ったり、周囲を見渡したりする必要はない。フィギュアスケートは自分との戦いなのだと。

「たとえば、どうしてみんな4回転ジャンプの部分ばかりを切り取って持ち上げるのかしら。たしかにすごいことではあるけれど、フィギュアスケートの要素はそれだけではないでしょう? プログラム全体を通して芸術性を感じるべきよ」

誰もが4回転を跳ばなければいけないのか。

 選手それぞれが、ぞれぞれの方法で宇宙を目指す──。

 なにも4回転ジャンプを跳ばなければ絶対に勝てないということではないし、高難度かつ美しい3回転のコンビネーションジャンプなど表現の方法は他にもあるということだった。

 コーチも同様だ。世界にはさまざまなコーチングスタイルがあり、幼少期からの育成が得意なコーチもいれば、完成された選手をさらに伸ばすことのできるコーチもいる。促成的な視点で育てるコーチもいれば、長期的な視点で育てるコーチもいる。

「たしかに現在フィギュアスケートを前進させているのはエテリ・トゥトベリーゼですし、彼女の仕事ぶりには敬意を払いたいですが、コーチにしても道はひとつではありません。大切なのは選手を育てていくという本質の部分です」

日本でも定着しつつある「マラディエッツ」。

 とくに女子シングルに関しては、低年齢化が進み、育成スピードが速まっている。そうした時代の流れにあることは事実としても、コーチみんながエテリ・トゥトベリーゼのスタイルを踏襲する必要はない。選手と同様、さまざまなアプローチがあってしかるべきと語る。

 注目選手や時のコーチをこぞって持ち上げたり、選手同士やコーチ同士を何かにつけて比較したり、ともすればライバルに見立てて煽るような風潮。たしかにそれもスポーツのひとつの見方ではあるが、何かタラソワ先生に、行き過ぎのないよう諭されたような、雑音で事を荒立てたりしないよう釘を刺されたような、そんな気がした。

 来シーズンの展望について具体的に話を向けた際も、「私は占い師ではないので、未来のことはわかりません。フィギュアスケートを楽しみながらコメントしたい、ただそれだけです」と答えるにとどめた。やさしく微笑みながらも、眼光は鋭いまま。発言の影響力の大きさを考えてのことだろう。

 選手の頑張りには愛情たっぷりに賛辞を送り、ときに立場の弱い選手を守るために奔走する。その一方でフィギュアスケート界全体のことを考え、つねに目を光らせている。こうしたゴッドマザーのような存在がいることがまた、ロシアの強さの理由かもしれない。

 インタビュー終わり。日本の一部ファンが熱のこもった独特のタラソワ解説を楽しみにしていること、ほとんどの日本人はロシア語を解さないながらも「マラディエッツ(よくやった、えらい)」は知られるようになったことを伝えると、「ありがとう。今度解説するときは“マラディエッツ”を多めに言うことにしましょう(笑)」とうれしそうにしてくれた。

(「Number Ex」栗田智 = 文)