私の周りで大いに話題になっている本がある。

『準備せよ。 スポーツ中継のフィロソフィー』

 この本を書いたのは、WOWOWの代表取締役社長を務める田中晃氏。

 もともと田中氏は、1987年に始まった日本テレビの箱根駅伝完全中継の初代総合ディレクターであり、1991年の世界陸上競技選手権東京大会、そしてナイター中継を「劇空間プロ野球」と題して大きくリニューアルしたスポーツ中継のプロフェッショナルだ。

 その後、田中氏は『スカパー!』に移り、Jリーグの全試合完全中継や、パラスポーツの中継に力を注いだが、私は時折、田中氏がツイッターやブログで披露する「スポーツ中継批評」の大ファンだった。

 私が日ごろ中継に対して感じていた不満の原因がどこにあるか解き明かしてくれたり、「なるほど」と勉強になることも多々あった。

 今回の『準備せよ。』は、その集大成とでもいうべき著書で、アッという間に読了してしまった。

 田中氏は、自分が携わってきた仕事の魅力をこう語る。

「スポーツ中継を担当するということは、本当に素晴らしい仕事なんです。世界中の視聴者は、ディレクターが見せたい映像を通じてその試合を目撃する。最高の中継をお見せするには、最善の準備をしなければならない。取材し、競技のことを徹底的に理解したうえで、テクノロジーを生かす。それでも、基本中の基本は、ライブを優先させることですけれども」

ディレクターは神様なんだ。

 田中氏の見立てでは、世界のサッカー中継は2016年のUEFA EUROから大きく変化したという。

「2010年のサッカーW杯南アフリカ大会からは、不要なスロー再生や、観客席を映すことが増え、これが2014年の大会まで続き、全世界に悪影響を及ぼしました。ところが、2016年のUEFA EUROからはライブ優先になり、2018年のサッカーW杯ロシア大会も素晴らしい中継になった。それは、ジョン・ワッツというイギリス人が『いま、ピッチで起きていることを優先する』ことを徹底したからなんです」

 ひとりのディレクターの考えで、中継は大きく変わる。だから、「ディレクターは神様なんだ」と田中氏は言い切る。

「スロー再生主義」の弊害。

 ライブ中継が優先されるのが当たり前だと思っている人が多いかもしれないが、日本でも、そのルールが無視されていることが意外に多い。

 たとえば、日本のバスケットボール中継では、ディレクターによっては、派手なダンクが決まった後にスロー再生が入ることがあり、その再生中にターンオーバーが起きたりする。

 これは、アメリカの中継では、まず見ない。再生途中でも乱暴なほどのスピードでライブに戻る。

 田中氏はそうした「スロー再生主義」をこう読み解く。

「それはディレクターの手元には全ての映像がそろっているゆえの緊張感の欠如です。ボールはセンターラインを越えてないし、スローを出しておいても大勢に影響はないだろう……という油断がある。しかし、そうした姿勢はいつか大きな失敗を生みます。

 いま、中継ではテクノロジーの発達で、ディレクターは様々な素材を手にしています。しかも、カメラマンもいれば、オペレーターもいる。つまり、コストがかかっているので、あらゆる映像を見せたくなる。ただし、技術のための中継になってはいけない。あくまで試合が主人公ですから」

「ヒーロー主義」では面白さは伝わらない。

 今年はラグビーW杯、そして来年は東京オリンピック、パラリンピックが行われ、スポーツ中継、そして報道には大きな注目が集まる。

 田中氏は現状の「ヒーロー主義」、「日本中心主義」を憂慮している。

「日本の選手を取り上げ、ヒーローの物語を作る。ただし、そこに突っ込んでいくと、競技本来が持っている本質、魅力とバッティングしてしまいかねないんです。日本の選手が銀メダルを獲った。しかし、金メダリストを報じないことさえある。これでは競技の面白さを伝えきれるわけがない」

 バランスのいい世界大会の中継を知っているのは、ギリギリ1970年代に生まれた人までだろう。

 振り返ると、1980年代までのNHKが中継する各競技の世界選手権の中継は素晴らしかった。日本だけではなく、あらゆる国の選手に目配りが利いていた。

 変わり目となったのは、1996年のアトランタ・オリンピックあたりからだろう。タレントが中継に絡むようになり、日本中心報道が増えた。

スポーツ報道がドメスティックに。

 平成年間、日本のアスリートが世界に打って出るようになってから、皮肉なことに、世界を報じるのではなく、日本中心の報道が進んでしまった。

 そのきっかけとなったのは、野球では1995年の野茂英雄のメジャー移籍、そして2001年にイチローが大活躍、サッカーでは1998年に日本代表がW杯に初出場したことで、それまで海外に目配りが利いていたものが、ドメスティックなものに変わった。

 田中氏の基準は、あくまで世界にある。WOWOWはテニスの中継をずっと続けているが、田中氏は「錦織選手の人となりを紹介するのが目的ではない」とハッキリいう。

「ずっと中継を続けてきたことで、日本のみなさんにフェデラー、ナダル、そしてジョコビッチの強さ、素晴らしさを伝えられたわけです。ジョコビッチのアクの強さも含めてね(笑)。世界を知ることは、スポーツにとって最高の喜びじゃないですか」

 そうした発想を、東京オリンピック、パラリンピックの中継に期待するのは難しいのが現状だ。

「ヒーロー主義、日本中心主義には一定の需要はあるのでしょう。ただし、その傾向が進み、それが中継の文法になってしまっています。このまま、東京オリンピック、パラリンピックを迎えてしまったら、世界のトップアスリートの肉体、技術を見過ごしてしまうことになる。こんなもったいないことがありますか」

WOWOWが五輪を報道するとしたら……。

 田中氏は「現実性がない話ですが……」として、こんな番組を作ってみたいという。

「もしもWOWOWがオリンピック関連の報道が出来るとしたら、デイリー・ハイライトを放送したい。そこでは、陸上から近代五種まで、すべての競技、すべての種目の金メダリストを紹介します。そうなると、解説陣のチョイスも変わってきます」

 田中氏から出たのは、世界中の誰もが知っているビッグネームだった。

「陸上だったら、カール・ルイスを解説者に招きたいですよ。競泳だったら、マーク・スピッツ。20世紀のスポーツ史に残るレジェンドをスタジオに招いて、英語でハイライトを伝えるでしょうね。そうすれば、国内在住の海外出身者の契約も増やせるんじゃないかという算段もあります」

 発想が違う。そんなハイライトがあったとしたら、ぜひ見てみたいと思う。

 また、パラリンピックの中継についても過渡期にあるという。

「平昌パラリンピックを見る限り、日本ではまだパラスポーツ中継のフィロソフィーが定まっていない印象を受けました。スノーボードの成田緑夢選手が金メダルを獲って、彼の演技をリピートしていたんですが、その間にクロスカントリーで新田佳浩選手が金メダルを獲ってしまった。

 クロスカントリーのライブの映像は放送にはなかった。これはライブを優先させるというスポーツのフィロソフィーが徹底されていれば起こりえないことで、パラスポーツにも日本選手のヒーロー主義、メダル主義が影響していましたね」

どんな哲学を持って展開するか。

 いま、世界的にスポーツの中継自体が変わりつつある。WOWOWも中継していたNBAは、今は楽天TVが権利を獲得し、スマートフォン、タブレット中心の視聴形態に変わってきた。田中氏は中継権の獲得には、その競技に対する責任が伴うと話す。

「権利を獲得したら、最善の見せ方を提供する責任があると私は思っています。そしてまた、それがファンのため、地域のため、その競技のためでなければならない。たとえば、JリーグがDAZNと契約したことで、放映権料が一部のクラブではビッグネームの獲得に使われたり、強化につながっているように見えます。今後、DAZNさん、楽天さんがどのような哲学を持って中継を展開していくか、注目しています」

 田中氏と話すと、スポーツ中継だけでなく、競技そのもの、取り巻く環境についてすべて答えを持っている。ひとつひとつ分解し、「なぜ、いいのか。なぜ、ダメなのか」という理由が提示される。話していると、本当に楽しい。

『準備せよ。』がスポーツ中継やメディアのジャンルだけに規定されてしまうのはもったいない。

 これは田中晃という早稲田大学で演劇を専攻し、本来はドラマ制作志望で日本テレビに入局した若者が、スポーツにとことん魅せられ、理想の表現形態を追求してきたストーリーでもある。

 人間、スポーツに魅了されると、ここまで物事を探求することが可能なのだ。

 この本は、深い。

(「Number Ex」生島淳 = 文)