それは忘れがたい演技だった。

 3月23日、世界フィギュアスケート選手権男子フリー。最終グループで登場した羽生結弦は、渾身の、あるいは魂のすべてを込めたとでも形容すべき演技を、さいたまスーパーアリーナの氷上に体現した。

 昨年11月のロシア杯で右足首を負傷して以来の大会だった。久しぶりの実戦だった。日本で行われる試合への出場も久々ということもあって、開幕前から羽生への注目は否応なく高まっていた。

 その中にあってショートプログラムに臨んだ羽生は、冒頭の4回転サルコウが2回転になるミスもあり、3位で折り返すことになった。

「今ものすごく悔しいので、フリーに向けて、今できることを1つずつ重ねたいと思います」

 そんな決意とともに迎えたフリーは、演技の前に行われる6分間練習から、明らかに気迫が異なっていた。リンクサイドへと足を踏み入れるとき、練習から引き上げるとき……。いつにない強い気持ちが込められているのが感じ取れた。

火の出るような4分間。

 いざ始まった演技では、プログラムの世界観を損なわず、同時に火の出るような4分を見せることになった。

 冒頭、4回転ループ。公式練習でも苦しんでいた難度の高いジャンプを成功させると、歓声と拍手が起こる――。そのあとの演技は、鮮烈な時間だった。

 決して、完璧だったわけではない。2つ目のジャンプである4回転サルコウは辛うじて転倒を防いで踏ん張るような姿勢となり、回転不足の判定を受けた。ステップも、最高のレベル4ではなく、レベル3であった。

数字に収まらない忘れがたい演技。

 今シーズンの中では最高得点を獲得することになったが、ショートでトップに立ったネイサン・チェン(アメリカ)を逆転することはかなわず、2位にとどまった。優勝はならなかった。

 だがそうした数字だけで、羽生の演技を収めるわけにはいかない。氷上にあったのは、観る者の心を揺さぶる、忘れがたい演技にほかならなかった。

 むろん、それはただの私感に過ぎないかもしれない。たとえそうだとしても、確かにそう感じさせた。

スポーツを語り継ぐ、ということ。

 しばしば、過去のスポーツの文章を読むことがある。自分が見たわけでもない選手や試合を描写した記事に目を通す。

 すると、数字は華々しくなく、成績の上では突出したものがないのに、なぜか深く心に残ることがある。

 一例をあげれば、プロ野球がそうだ。本塁打でも打率でもトップではない選手にもかかわらず、その存在感がくっきりと印象付けられる。それこそ実際に観たこともない時代の選手の魅力が、生き生きと感じられることがある。端的に言えば、データには映らない魅力をそこに感じとることがある。だから「列伝」ものを読むのは楽しい。

 プロ野球に限らず、どの競技であってもそうだ。優勝者ではなくても、記憶に深く刻まれるシーンがあり、きっと語り継がれるべき場面がある。

 むろん、スポーツにおいて記録は重要だ。記録こそ残されるべきであり、のちに参照され、比較されることにもなる。

 ただし、記録がすべてではない。記録には残らなくとも、記憶に残されるべき試合があり、光景がある。

 そして試合そのものはもちろんのこと、試合に至る過程、試合の中での紆余曲折……そうした一連の事柄こそ、数字だけでは表せない。そのとき、文章であれ写真であれ形式を問わず、記録される意味が浮き彫りになるし、語り継ぐ役割を帯びることになる。

数字で見れば2位だとしても。

 記録だけを見るならば、ネイサン・チェンの前にショート、フリーともに遅れをとっての2位で終えたのが、2019年の世界選手権の羽生の演技である。

 しかしそこには、記録には収まらないものがあった。のちのちまで記憶されるべき演技であった。

 大会からしばし時間が過ぎた今も、その実感に変わりはない。

 世界選手権で見せた羽生結弦の演技は、少なくともフリーは、そのような演技であった。

 自身の誇りと意地を100%かけた時間がそこにあった。

 それはスポーツでよく議論される、「記録」と「記憶」の意味合いをあらためて考えさせる機会でもあった。

(「オリンピックへの道」松原孝臣 = 文)