昭和の終わり、プロレスはテレビのゴールデンタイムから消えた。だが、平成に新しいプロレスを確立し、ファンを熱狂させたのが三沢光晴(享年46)だった。10年前に試合直後に急逝した後も、その雄姿は色あせない。母校・足利大付高(当時は足利工大付高)のレスリング部の盟友らが三沢の魅力を語った。

 1990(平成2)年5月14日、東京体育館。ジャイアント馬場が率いる全日本プロレスで「事件」が起きた。2代目タイガーマスクがマスクを脱ぎ、素顔の三沢に戻った。27歳の決断だった。

 当時、全日本は看板選手らの大量離脱と他団体移籍で存続すら危ぶまれた。新たなスターが待望されていた。レスリング部の先輩だった谷津嘉章(62)はこの日のタッグマッチの対戦相手だった。「俺がマスクに手をかけ、外すきっかけをつくった」と話す。

 三沢は中学時代に器械体操の経験があり、跳び技が強みだった。だが、マスクは視野を狭め、動きを鈍らせる。三沢の持ち味をさらに引き出したかった谷津は、馬場に「いつまでマスクをかぶせるんですか」と訴えていたという。

 約1カ月後、三沢はエースのジャンボ鶴田に初勝利。92年8月にはスタン・ハンセンを破って全日本の最高峰・三冠ヘビー級選手権の王者に初めて輝いた。

 ロープなどを使って縦横無尽に跳び、右ひじで相手の顔面を打ち抜く「エルボーパット」は三沢らしい技だった。谷津は言う。「飛んだり跳ねたりは重量感をそぐとして、ヘビー級の試合であまり使われなかった。でも、三沢は跳び技に強さと迫力を持たせた。いまではこうしたプロレスが主流。三沢は『平成プロレス』の礎を築いた」

 三沢の好敵手は、レスリング部の1年後輩、川田利明(55)=栃木市出身=だった。三沢を追って全日本に入り、90年代には「三冠」のベルトをめぐるライバルとして何度も対戦した。三沢のエルボーと川田のキックの応酬は、深夜にプロレス中継を見ていた全国の若者を湧かせた。川田は「三沢さんがいなかったら、僕のプロレス人生は全く違った」と語る。