「ヤシの木の下でも開催できる大会を」。こんな合言葉で始まったアジア版パラリンピック「アジアパラ大会」が6日、インドネシア・ジャカルタで開幕する。「日本のパラリンピックの父」といわれる大分の医師、中村裕(ゆたか)氏(故人)が発案した大会がアジア各国を巡り、今年12回目を迎える。

 アジアパラが初めて開かれたのは1975年。64年の東京パラリンピック後、選手団長を務めた中村医師が「パラリンピックに参加できるのは金持ちの国ばかり。どんな障害があっても、どんな国でも参加できる大会を開きたい」と動き出したことがきっかけだった。

 第1回の大会名は「極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会」(通称フェスピック)。アジアで初めての障害者スポーツの国際大会として、大分県別府市などで開かれた。

 「リハビリの一環という意識はもうないくらい、真剣勝負の世界でした」。第1回大会に3種目で出場し、金、銀、銅のメダルを獲得した江藤秀信さん(74)はそう話す。

 江藤さんは日体大4年の時に鉄棒から落ち、脊髄(せきずい)を損傷。「人生が終わった」。入院し、悲観していたころ、中村医師が創設した社会福祉法人「太陽の家」と出会い、そこでバスケットボールのチームを作った。

 中村医師は車いすバスケが好きで、必ず「今日の試合は勝つのか」とたずねてきたという。「負けそうな試合には『悔しくて見ていられないので応援には行かない』と言って本当に来なかった」と笑う。

 江藤さんが出場した車いすバスケチーム初戦の相手はフィリピン。当時、「アジアで最も弱い」と言われていた相手に、日本は東京パラリンピックで惨敗していた。「雪辱を果たす」と臨んだ試合は、20点ほど差を付けて大勝した。

 「純粋に、負けたら悔しいという思いは誰でも一緒でしょ。リハビリと言われて始まった障害者スポーツだけど、勝負してんだっていう気合は当時からみんな抱いていた」と振り返る。

 同じく第1回大会に理学療法士として参加した高橋寛さん(69)は「寝る間もなく、狂うかと思った」。それまで障害者スポーツは欧米主導で、「アジアについては前例も教科書もなく、とにかく走り回った」という。

 海外選手の宿泊先が車いすに対応しておらず、選手が1人でも利用できるようにユニットバスの高さに合う台を手作りした。障害者スポーツに欠かせない競技の「クラス分け」を若い理学療法士に教え、会場までの動線の確保などもやった。

 滞在費は日本側が負担するとして招待状を出したが、インドやバングラデシュ、スリランカなど10カ国からは「予算がなく選手を派遣できない」と返事が来た。

 渡航費を集めるため、高橋さんも率先して募金活動に奔走した。評論家の秋山ちえ子さんらが募金活動に動き、全日空が2機をチャーター便として半額で提供。国際線がなかった大分空港に特別機として降り立った。結果、日本を含む計18の国と地域が参加した。