<寺尾で候>山陰本線の特急「スーパーまつかぜ」は、山と海を眺めながら走る絶景のローカル線で知られる。出雲市から益田行きの…

<寺尾で候>

山陰本線の特急「スーパーまつかぜ」は、山と海を眺めながら走る絶景のローカル線で知られる。出雲市から益田行きの列車に乗り込んだ。車窓から秋の日本海に見とれながら、名物しじみ弁当で腹を満たす。

近鉄、日本ハムでリーグ優勝、楽天でも監督を務めた梨田昌孝が、生まれ故郷の島根県浜田市から「浜田市名誉市民」の称号を授与された。同県西部に位置する浜田市を取材で訪れるのは初めてだった。

伝統芸能「石見(いわみ)神楽」は日本神話で伝わっていることで有名。代表演目に登場する「大蛇(おろち)」など歌舞伎の題材になって、幾度も舞台の番付に寄稿しているから気になる土地でもあった。

梨田のルーツに触れるために浜田駅で下車し、市内の焼き鳥屋「でん助」に向かう。きっぷの良い主人の沖本俊文は、梨田の2歳年下の後輩で、法大に進学したが卒業後に帰郷。日本ハムで優勝した際に祝勝会が開かれた店でもあった。

ここに名誉市民顕彰の“前夜祭”というべきか、浜田高OBが大挙して集合した。港町の浜田で、沖本が先輩のお祝いに用意したプリプリのタイ、のどぐろの刺し身は絶品だった。

司会役は浜田市議会議員の村木勝也で、青学大主将だった石橋修も「梨田さんは尊敬する大先輩ですから」と指導法の話題に熱が入った。そのうち浜田高野球部・国分健監督も恐縮しながら合流した。

梨田と同級生で、野球部に入部したチームメートは14人だが、最終的に残ったのは6人で、そのうち2人が亡くなった。高3の夏に左ヒザを骨折しながら甲子園でベンチ入りし、後に銀行マンだった高松彰夫と向き合った。

「今のようなパワハラはなかったけど、練習が厳しくてね。センバツ出場が確実視された秋なんて、部員が12人しかいないのに、OBが20人ぐらいきて指導されるんですから。それも市民の方々がいつも100人ぐらい練習を見に来たから盛り上がりました」

梨田は浜田第1中学で本格的に野球を始めた。ポジションは身長順で決められ、3番目の男は捕手になった。ピッチャーは、後に一緒に浜田高で甲子園を目指す小島寛。梨田とコンビを組んだ細身の左腕は、数年前に鬼籍に入ったという。

高3の春夏に連続で甲子園出場。センバツは坂出商、夏は池田と対戦し、いずれも1回戦で敗退。高松は「梨田の打球は、左よりセンターから右方向が伸びたんですよ」となつかしんだ。

「ほとんどレフトへのホームランは見たことないですね。右手の握力が強いから、右の力のほうが勝つんでしょうね。右中間にホームランを打ちました。それに体の柔軟性はないけど、ケガに強かったのは、長く野球をやれた秘訣(ひけつ)じゃないですかね」

梨田は、父・豊、母・榮子の間で生まれた5人兄弟の末っ子で育った。少年時代から叔父・昭に連れられ広島市民球場に野球観戦に行った。プロ野球は梨田少年のあこがれだった。

自宅が遠い三隅町(現浜田市)にあった同級生の岩野康彦は、春から夏が終わるまで梨田の自宅に下宿して浜田高に一緒に通った間柄。高校3年間、寝食をともにした岩野は近大進学後も野球を続けた。

「梨田は付き合いのええやつでな。野球? そんなにうまくはなかったよ。でもキャプテンだったし、リーダーの素質があった。努力をしたし、勝負運を持っている。甲子園では盗塁を4つ刺したかな。近鉄であの世界の福本豊さんをアウトにするんだもん。日本一のキャッチャーだよ」

翌日に「浜田市名誉市民」の顕彰を控えた梨田が最後にあいさつに立った。「わたしが80歳になるまでにもう1度、後輩たちが甲子園でプレーする姿を見たい」。浜田魂を持ち続ける野球人たちが気勢を上げた。

  (敬称略)