日本サッカー界を代表するストライカー・釜本邦茂さんが亡くなった。日本代表として75得点、メキシコ五輪で得点王など、数々…
日本サッカー界を代表するストライカー・釜本邦茂さんが亡くなった。日本代表として75得点、メキシコ五輪で得点王など、数々の記録に彩られたサッカー人生だったが、その本当のすごさは記録以外の部分にあると言うのは、その全盛期を知るサッカージャーナリスト後藤健生だ。追悼の気持ちを込めて、不世出のストライカーの「真の功績」に迫る!
■欧州の屈強なDFに「一歩も引かず」
釜本さんと言えば、右45度から持ち込んでの強烈なシュートが最大の見せ場だった。だが、その右足をフェイントに使って相手DFをかわして左足でも得点できたし、ヘディングも強かった。
つまり、釜本さんは右足でも左足でも、そして頭でも決めることのできる万能FWだった。
身長は公称で179cm。実際は181cmあったようだが、それほど大きな選手ではない。だが、体幹の強さは圧倒的で、ヨーロッパの屈強なDFと対峙しても一歩も引かなかった。
だから、ゴール前で相手DFを背負いながらも、しっかりとボールを収めてタメを作ることができたのだ。
CFの役割で最も重要なのは得点を決めることだが、同時に最前線でのポストプレーも大切だ。だが、この2つを完ぺきにこなせる総合的CFというのは世界を見渡してもそれほど多くはいない。
釜本さんは、まさに総合的CFとしてワールドクラスの存在だった。釜本さんに匹敵するCFといえば、僕はマルコ・ファンバステン(オランダ)くらいしか思い浮かばないのだ。
ゴール前で余裕を持ってシュートに行けたのも、フィジカルの強さがあったからこそなのだろう。
僕はご本人に「これまで対戦したDFの中で最も手強かったのは誰だったか?」と尋ねたことがある。答えはバイエルン・ミュンヘンのハンス=ゲオルク・シュヴァルツェンベックだった。1974年のワールドカップで優勝した西ドイツ代表の、まさに「屈強な」という表現がぴったりのDFだ。それを聞いて、「フィジカルコンタクトには絶対の自信を持っていた釜本さんらしい答えだ」と僕は思った。
■左足のキック上達のために「左手」で箸
京都・山城高校時代の釜本さんは、もちろん超高校級のCFだったが、シュートは右足だけでスピードもなく、デットマール・クラマー特別コーチは「熊」と呼んでいたそうだ。
高校生相手ならそれで十分に勝負できたのだろう。
だが、日本代表に入ってそれだけでは通用しないことを自覚した釜本さんはペンデルボール(ポールからロープでボールを吊るしたヘディング練習器具)相手にヘディングを鍛え、左足のキックがうまくなるように食事のときに箸を左手で持つ生活をして、新しい武器を手にしていった。
早稲田大学から、日本サッカーリーグ(JSL)に関西から唯一参戦していたヤンマーディーゼル(セレッソ大阪の前身)に入団。ヤンマーは2シーズン目を前にした1968年1月に釜本さんを西ドイツのザールブリュッケンに留学させる。
釜本さんは、ザールブリュッケンでユップ・デアバル監督(後に西ドイツ代表監督)の指導を受けてゴール前でのスピードを身に着けて得点力をさらにアップ。同クラブにあった1966年ワールドカップの得点王エウゼビオ(ポルトガル)のフィルムを擦り切れるほど見て、立ち足をボールより前方に踏み込む独特のフォームを手に入れた。
こうして、ストライカーとしての完成度を高めて臨んだ1968年のメキシコ・オリンピックで釜本さんは7ゴールを決めて得点王となり、銅メダル獲得に大きく貢献した。
■努力、信念、決断で「ワールドクラス」に
そして、オリンピックの活躍を見た各国のクラブからオファーを受け、釜本さん自身も西ドイツ行きに意欲的だったと言われるが、オリンピックまでの疲労の蓄積からウイルス性肝炎に罹って海外移籍を断念することになる。
当時の釜本さんの力からすれば、どこの国のどんなクラブに行っても成功は間違いなかっただけに、海外移籍が実現しなかったのは返す返すも残念なことだ。
日本でサッカーがまだマイナーな時代に釜本さんのようなタレントが現われたのは奇跡のようだ。
だが、同時に逸材の誕生を見逃さなかった関西のサッカー界。そして、東京オリンピックのときに、ようやく20歳という若い才能を信じて日本代表に招集し続けて、ついに東京大会に間に合わせた長沼健監督以下、日本代表の首脳陣の信念。
さらに、自らに足りないものを考えて、努力を積み重ねて完成度を高めていった釜本さん本人の努力。さらに、現在ほどサッカー界の国際交流が活発でなかった当時、釜本さんを西ドイツの留学に送りだしたヤンマーの決断……。そうした、いくつものプロセスを経て、ワールドクラスのストライカー釜本邦茂は完成したのである。
日本サッカー界への釜本さんの大きな貢献に感謝し、ご冥福をお祈りしたい。