広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏(80)が、現役時代の記憶を振り返ります。ONと名勝負や、チームメートとの思い出、今では想像もつかない昭和ならではの破天荒なエピソードを語り尽くします。 …

 広島、阪神で通算119勝をマークし、現在はデイリースポーツ評論家を務める安仁屋宗八氏(80)が、現役時代の記憶を振り返ります。ONと名勝負や、チームメートとの思い出、今では想像もつかない昭和ならではの破天荒なエピソードを語り尽くします。

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 先日のマツダスタジアムでの巨人戦、まさかまさかの3連勝。あんなに気持ちのいい勝ち方は久しぶりだったね。僕なんか相手が巨人となれば目の色を変えて投げてましたから。長谷川(良平)さんが監督のときは2勝分の評価をしてもらえたしね。巨人というチームはホント、特別の存在でしたよ。

 プロに入って最初に勝ったのも巨人戦。あのときはただ夢中で投げてただけだけどね。いつだったか、長谷川さんが「巨人戦を中心に投げるか、普通にローテーションで投げるか」と聞くんで「それは監督にお任せします」と言ったら、いつの間にか巨人戦の登板が増えていた。

 (巨人キラーと呼ばれた安仁屋が残した“ライバル”との対戦成績は154試合に登板して34勝38敗2セーブ。防御率は3・06。他球団では大洋27勝、ヤクルト25勝、中日19勝、阪神8勝、広島6勝。広島戦の成績は阪神在籍時のもの)

 僕は沖縄で生まれ育ったものだから、巨人以外のプロ野球選手は赤バットの川上に対する青バットの大下ぐらいで、あまり知らなかった。野球中継はラジオ。テレビは数日後に録画放送する程度で、それも巨人戦しかやらないもんだから、自然と巨人ファンになっていったね。

 その中でも藤田元司さんに憧れた。典型的なオーバースローのきれいな投球フォームが印象的でね。力を入れずに投げてもスピードが出るんだなあと思って見ていた。

 それと長嶋さんはやっぱり沖縄でも大人気だった。だから初勝利を巨人から挙げた日(1964年6月14日。広島市民球場。1失点完投勝利)は那覇の街が大騒ぎだったらしい。

 長嶋さんは華があったなあ。初めて出場したオールスターで「頑張れよ」と声をかけてもらったときはうれしかった。紳士でにぎやかで、周りを明るくする人だったね。

 試合中に三塁の守備位置からよくマウンドへ向かって、あの甲高い声で投手を励ましていたね。“俺のところへ打たせろ”みたいな。特に堀内が若かったころの光景が思い出されるね。

 僕はシュートピッチャーで右打者の内角をどんどん突いていくタイプだった。だから死球もあったけど、長嶋さんには一度も当てたことがなかったね。当てることを怖がると甘くなって逆に打たれるから思い切って投げてましたよ。

 ただ、長嶋さんはいつも“シュートが来る”と思ってか、ホームベースから遠くに離れて立っていた。それでも内角へシュートを投げて外角へスライダー。これをよく引っ掛けてくれた。

 (安仁屋の対長嶋茂雄成績は199打数で51安打、12本塁打、39打点、打率・256)

 カープでは大瀬良がいいシュートをもっているのに人の良さが出て、あまり曲がらずに甘くなってよく打たれる。僕なんか当たると思った瞬間に“ごめんなさい”と謝ってましたよ。手元が狂うことはだれにでもあるし許してくれるんだから、それぐらいの割り切り方でちょうどいい。

 また巨人戦が始まったね。今回は敵地東京ドーム。初戦はサヨナラ負けしたけど、へこたれることなく、ここから巻き返してほしいね。

 ◇安仁屋宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日生まれ。沖縄県出身。沖縄高(現沖縄尚学)のエースで62年夏に甲子園出場。琉球煙草を経て64年広島に入団。75年阪神に移籍。80年に広島へ復帰し81年引退。実働18年、通算655試合登板、119勝124敗22セーブ。引退後は広島の投手コーチ、2軍監督などを歴任。2013年12月から広島カープOB会長。22年から同名誉会長。