不惑の大砲と呼ばれた門田博光さんが亡くなって2年になる。現役通算567本塁打は王貞治の868、野村克也の657に次ぐNPB歴代3位の記録。南海ホークスで一時期をともにした岡義朗氏(デイリースポーツ評論家)は「プロ中のプロ」であり「破天荒」…
不惑の大砲と呼ばれた門田博光さんが亡くなって2年になる。現役通算567本塁打は王貞治の868、野村克也の657に次ぐNPB歴代3位の記録。南海ホークスで一時期をともにした岡義朗氏(デイリースポーツ評論家)は「プロ中のプロ」であり「破天荒」だったアーチストの生き様に触れ、故人を偲んだ。
(門田さんは2023年1月24日。自宅で倒れているところを兵庫県警相生署員によって発見され、その場で死亡が確認された。74歳だった)
もう2年になるかね。カドさん(門田の呼称)は一匹オオカミで破天荒なところがある一方で、プロとしてのこだわりが非常に強く、いつも自分との闘いに挑んでいるような人だった。その集中力と執念は本当に凄かった。
僕は1980年のシーズン中に広島から南海へトレード移籍。当初、カドさんとはロッカールームが隣りでね。そのうち「食事いこか?」とか「マージャンやろか」とか気さくに声をかけてもらうようになった。
マージャンは点数の高い役満とか、いつも大きな手を好む人で、一発を狙う野球と一緒だったけど、その一発を放つ前にだいたい振り込んだりして上がられていたね。本人としては楽しむのが目的で、後輩に勝たせてくれる優しい面があった。
当時のチームは、いろんなことを教えてくれる藤原満さんがリーダー格。カドさんは“オレを見て覚えろ”という親分肌だけに、若い選手からすれば近づきにくい雰囲気があったと思う。
自分自身に厳しくて寡黙だから怖い感じ。来る者は拒まずだけど、自分から寄り添っていくタイプでもなかったから、若手はみんな藤原さんの方へ流れていったし、孤独で寂しかったのかな。心の底では周りと触れ合うことに飢えていたのかもしれない。
厳しい一面を見たのは高柳秀樹がDHで先発出場し、凡打に倒れたときだね。そこでの仕草や“講釈”が癇にさわったのか、ベンチの中で「バカたれ。そんな甘い考えで打てるか。DHをナメんな!」と一喝したんですよ。高柳は打撃に魅力があり、可能性のあるいい選手だったから、余計に言っておきたかったんだろうね。
DHといえどもプレーボールがかかった瞬間からゲームに入り込んで試合展開を読み、バットを振り続ける。カドさんは初回からゲームセットまで、いつも汗だくだったからね。なのに2、3回バットを振っただけで打席に入って、打てるわけがないと言いたかったんでしょう。
打席内での執念を感じたのは頭近くを通された直後に、踏み込んでホームランを打ったシーン。相手は村田兆治さんだった。村田さんから14本のホームランを打っているが、その中の1本がこの痛快弾。「次はアウトコース」という完全な読み勝ちだった。
相手が一流投手だからこそ信頼して踏み込んでいけるんだろうけど、その勇気と仕留める力には感服したものですよ。ほかの投手も含めると、こういう場面を何度か見たね。
だからビーンボールまがいの球が来ると、ベンチから「次、ホームランあるよ」という“ヤジ”が投手へ向けて飛んだものだ。
話は逸れるが、カドさんは自分自身の予測から外れた情報を排除する人でもあった。昔はサインを盗み、解読して打者に伝える手法が半ば許されていたけど“リキむから”という理由でこれを拒んでいた。
解読間違いもあれば、投手の手元が狂うこともあるからね。自分の頭と腕だけに頼りたかったのだと思う。
破天荒な話でいうと、水代わりに飲んでいたビール。試合前のベンチで大きなコップを手に、清涼飲料水のようなものを飲んでいるから中をのぞいてみると、やけに泡が立っている。「何ですか?これ」と聞くと、「男の嗜みや」てね。
驚いたよ。それもあっという間に汗になっていたけどね。これでホームランを打つんだから、漫画のような話だね。
僕が初めてカドさんを見たのは高校時代。クラレ岡山のノンプロチームが月に1回、グラウンドの関係から岡山東商で練習していた。プロ入り後はホームラン打者の印象が強いが、元来は走攻守三拍子が揃った好選手でしたよ。
アキレス腱を断裂したあとは、ほとんど指名打者としての出場だったけど、たまに外野の守備練習に入ったときは、ビックリするような強肩を披露することがあった。守備要員の僕らに「どや!」という感じで見せつける。あれには参ったね。
「ヒットでええんならいつでも打ったる。しかし、そんなことをするオレに魅力があるか」
忘れられない言葉になったね。バッティングスタイルに強いこだわりをもっていたプロ中のプロ。それが門田博光という人ですよ。