米国野球殿堂入りが決まったイチロー氏(51)=本名・鈴木一朗=が21日(日本時間22日)、マリナーズの本拠地T-モバイルパークで記者会見に臨んだ。表彰式典は7月27日にニューヨーク州クーパーズタウンで行われる。以下、一問一答。 (MLBネ…
米国野球殿堂入りが決まったイチロー氏(51)=本名・鈴木一朗=が21日(日本時間22日)、マリナーズの本拠地T-モバイルパークで記者会見に臨んだ。表彰式典は7月27日にニューヨーク州クーパーズタウンで行われる。以下、一問一答。
(MLBネットワーク)
-殿堂入りはどんな意味を持つか。
「2001年に挑戦が始まったが、当時、僕がホール・オブ・フェイム(殿堂入り)発表の場にいられることは全く想像できなかった。日本のプレーヤーとして初めてということで、大変光栄なことだと思っている」
-最も喜びを感じた試合は。
「野球の魅力はゲームそのものにももちろんあるけれど、多くの人に出会えるということ。多くの人の出会いが自分をつくってくれた。それが何よりの財産であり、楽しいことと言える」
(オンライン会見)
-オークランドでのメジャー初補殺は印象深いか。
「あの試合は先発じゃなくてイライラしていた。ファンからなかなか厳しい声があったり、物が投げ入れられたり、怒りのエネルギーであの結果につながったのがすごく大きかった」
-オークランドのファンはなぜ厳しい声を。
「どうしてそうなったか分からないけど、初めて日本人の野手が(メジャーに)来て、アメリカの洗礼というか、外国から来た訳の分からない選手にそうやって洗礼を浴びせたんじゃないかな」
-07年のオールスターでランニングホームラン。
「あれは実は(フェンスを)越えてくれなくてすごくへこんでいた、ショックだった。越えたと思ったので。だけど結果的には誰もやったことないことにつながったので喜んでいた。友達が来ていて、早く予約していたレストランに行きたくて早く帰ろうとした。帰ろうとしたらMLBの人から『MVPになるかもしれないからダメだ』と止められて。僕は早く行きたいから誰か逆転本塁打でも打ってって思っていたけど、結果的に時間がたって、あれで良かったなという思い出です」
-27歳でメジャーに来て、この状況を想像できたか。
「地球上で一人も想像していなかったでしょう」
-これまで達成してきた記録の中で、殿堂入りはどこに位置する。
「選手としての評価という意味では最高。比べるものはない。これ以上はないし、この後ももちろんない。特殊なのは、過去に対する称賛であること。あくまで今をどう生きるかということを僕は考えていきたい」
-感謝するとすれば、誰にどんな言葉を贈ることになるのか。
「ずっと一緒に戦ってくれて、支えてきてくれた存在。まずは妻に感謝の気持ちを伝えたい。最も影響を受けたのは仰木監督だと思う。仰木監督の存在がなければ片仮名の『イチロー』にならなかっただろうし、これだけ知ってもらうこともなかった。そもそも野球という存在がなければ、僕は一体、何だったんだろう、何者かになれたんだろうかと考える。今日、特にそう思う」
-メンタル面を鍛えるにあたって大事なこと。
「メンタルを鍛えたいなら、厳しい道を選ぶ他ない。楽な方へ行くとメンタルは弱くなっていく。挫折を知らない、負けを知らないメンタリティーというのはすごく弱いと思う。チャレンジして、その瞬間は負けるかもしれないが、それを糧に頑張る、それを克服していく、そうやって築き上げるものじゃないか。いかに厳しい道を選べるかに尽きると思う」
-今日はどのようにお祝いする。
「お祝いする時間がないと思う。明日が早いこともあって、いつも通り過ごすんじゃないか。家で妻とお酒を一杯、乾杯するぐらい」
(本拠地での会見)
-殿堂入りの電話を受けた時の気持ちは。
「(米西部時間)2時15分から待機した。15分を過ぎて電話が鳴らなかった時に『これないんじゃないか』と思ってすごく不安になった。電話がかかってきて、ほっとしたという気持ちの方が強かった。喜びはこれから出てくるんじゃないか」
-選手としてのハイライトは。
「18年5月の頭から選手としてはプレーできなくなった時間です。練習だけの時間を過ごした。この時間はなかなか経験できるものではない。この経験が僕の支えになっていると言える。さらに東京での引退。試合が終わって何時間たってもお客さんが球場にとどまってくれて、僕を待ってくれた。あの瞬間はこれからも大きな支えになる」
-プロになったばかりの選手への助言は。
「才能を生かすも殺すも自分自身。自分の能力と、それを生かす能力というのはまた別にあるということをまず知っておいてほしい。自分をどれだけ知っているかが、結果に大きく影響しているということを知っておいてマイナスはない」
-言葉とどう向き合っていたのか。
「僕の中から出てくる言葉を選んでいた。じゃないと伝わらない。人から聞いた良い言葉、良い話とかもいいけれど、それを公の場で、僕の言葉じゃない言葉で話したとしても聞いている人は分かってしまう。不思議なことに。僕の中から湧いてくる言葉。それを表現していた」
-自然に湧いてくるのか。
「降ってくるのを待っていることはあった。それは作り上げたという感じではない」
-今の時代は選手も抑えて話しているように見える。
「もちろんそうです。どの時代もそうですけど、今はそれが極端になっている印象です。今の記者さんたちが大変だなと想像するんですが、表現している言葉を額面通り取れないんじゃないかなと。その裏側を捉えないといけないけど、表現していないからそれを書けない、表現ができないというもどかしさは、現代の深刻な病とまでは言わないが、言葉の裏側を捉えないといけない。僕はなるべく自分が思っていることを表現したいと思っている」
-阪神大震災から30年。野球人生において大震災がどんな影響を与えたか。
「プロ野球選手としてチームが結束することはなかなかない。自分の結果を出さないとクビ切られちゃうから。春から秋まで、日本シリーズが終わるまで結束できたのはあの年だけだったと思う。95年はそういう意味でも特別な年だった。神戸の変わり果てた街並みを見た時に自分たちに何ができるんだろうとみんな考えた。当初は野球なんかやっている場合じゃないという声もあった。僕らの中にもあったが、プロ野球選手というのは普通に生活していたらできないことを形にできる職業なんだという実感があって。確かにファンとの向き合い方が大きく変わった出来事ではあった」