連載第26回 サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」 なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。 J1連覇を目指すヴィッセル…
連載第26回
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
J1連覇を目指すヴィッセル神戸。最終節はホームのノエビアスタジアム神戸で行なわれます。1970年に日本初の球技専用スタジアムとしてスタートしたこの場所は、当時から美しい芝のすばらしさで鳴るサッカー場だったと言います。
J1連覇を狙うヴィッセル神戸は最終戦をホームのノエビアスタジアム神戸で戦う
photo by Getty Images
【ヴィッセル神戸黄金時代の到来か】
J1リーグで連覇を狙うヴィッセル神戸。
第37節では柏レイソル相手に大苦戦。開始早々CKから失点し、ハイプレスをかけられてパスをつなげず、そのまま敗戦かと思われた。神戸が敗れると、翌日の試合で2位サンフレッチェ広島が勝利すれば、勝ち点で並ばれて得失点差で広島が首位に返り咲くことになる。
ところが、試合終了間際になってサプライズが次々と起こった。
88分には柏のジエゴが武藤嘉紀に対してヒジ撃ち。VARチェックによって神戸にPKが与えられ、すでに警告のカードをもらっていたジエゴは退場となった。
ところが、なんと大迫勇也がPKをまさかの失敗。だが、神戸はその後もひとり少なくなった柏ゴールに襲い掛かり、90+10分には武藤がこぼれ球を押し込んだ。すぐに副審の旗が上がったが、VARによる長いチェックの末にオフサイドが取り消され、同点ゴールが認められたのだ。
VARによって"与えられた"貴重な勝ち点1は、優勝争いに大きく影響することになる。
神戸が広島を勝ち点で上回ったため、神戸は最終節で湘南ベルマーレに勝ちさえすれば、得失点差とは関係なく優勝を決められることになったのだ。J1リーグ連覇。そして、天皇杯との二冠達成となれば、まさに神戸の黄金時代ということになる。
【日本初の球技専用スタジアム】
神戸の街が阪神・淡路大震災に襲われた1995年にヴィッセル神戸が誕生するまで、神戸にはトップリーグのチームは存在しなかった。日本サッカーリーグ(JSL)時代にも神戸にはチームは存在しなかった。
だから、東京生まれの僕は神戸のサッカーについてはほとんど何も知らなかった。
神戸について興味を持ったのは、1970年に「御崎サッカー場」(のちに「神戸市立中央球技場」と呼ばれるようになった)が完成してからだった。
日本初の球技専用スタジアムだった。東京都北区に西が丘サッカー場(現、味の素フィールド西が丘)が完成するのは1972年のことだ。
収容力は1万3000人ほどでバック側とゴール裏は芝生席だけだったが、とにかく専用球技場の完成はビッグニュースだった。スタジアムの四隅に各1基の照明塔が立つ「コーナーライティング」方式も、イングランドのサッカー場のようでお洒落だった。
そして何よりもすばらしかったのは、その美しい天然芝のピッチだった。
当時、国立競技場などの芝生の状態はどこも悪く、初夏に植え替えられた芝生は試合を重ねるたびに消耗し、秋にラグビーが行なわれたりすると土がむき出しの状態になってしまうことが多かった。
だが、御崎サッカー場の芝生はとにかく平坦で美しかった。
僕は、「御崎サッカー場に行ってみたい」と思った。すると、訪問の機会はすぐにやって来た。1970年8月にポルトガルのベンフィカが来日し、日本代表との第1戦が御崎サッカー場で行なわれることになったのだ。
1970年のベンフィカ対日本代表戦のチケット(画像は後藤氏提供)
ポルトガルは1966年のイングランドW杯で3位に入り、エウゼビオが大会得点王となっていた。アフリカ大陸南部のポルトガル領モザンビーク出身で、スポルティングとの激しい争奪戦の末にベンフィカに入団したエウゼビオは、たちまちブラジルのペレと並ぶスーパースターとなった。そのエウゼビオがやって来るのだ。
そこで、僕は御崎サッカー場見学を兼ねて観戦に行くことを決めた。
1970年には大阪府吹田市の千里丘陵で万国博覧会が開催されていた。そこで、僕はまず万博を見物してから神戸に向かうことにした。
万博会場では長蛇の列に並んでアメリカ館の「月の石」(アポロ12号が持ち帰った石が展示されていた)を見学。その後、ポルトガル館にも行ってみた。すると、ちょうどそこにベンフィカの選手たちがやって来てクラブの絵葉書を配り始めたので、僕は早速それにサインをしてもらった。
さて、神戸での対戦。日本代表はマンマークでエウゼビオに森孝慈をつけ、小城得達をスイーパーにして守備を固めたが、0対3で敗れてしまう。その後、ベンフィカは東京・国立競技場で2試合を行なったが、1対4、1対6とどちらも一方的なスコアになってしまい、エウゼビオは第2戦でなんと4ゴールを決めた。
【神戸は日本のサッカーの先進地だった】
後日談がある。
1986年のメキシコW杯の時、メキシコ市内でアディダス社のレセプションに行った。会場を歩いているとエウゼビオがひとりで立っていたので話しかけてみたのだ(エウゼビオは北米リーグでもプレーしていたので英語も流暢だった)。そして、神戸の試合の話をしたら、「ああ、神戸のスタジアムはすばらしい芝生だったなぁ」と懐かしそうに言うのだ。
世界的なスーパースターであるエウゼビオが覚えていてくれたのだから、御崎サッカー場の芝生は本当にすばらしいものだったのだろう。
神戸にこうしたすばらしいスタジアムができたのは、偶然ではないのかもしれない。神戸は日本のサッカーの先進地だったからだ。
サッカーというスポーツは19世紀にイングランドで作られた新しいスポーツだった。それで、どこの国でもまず英国人がたくさんやって来る港町でサッカーが盛んになった。たとえば、イタリアでは英国との貿易が盛んだった北西部の港町ジェノヴァで最初のサッカークラブが作られた。
近代日本で港町と言えば、横浜か神戸だ。
徳川幕府が欧米諸国と締結した「安政の五カ国条約」に基づいて神奈川(横浜)や兵庫(神戸)、函館などを開港。外国人居留地が造られ、各国の貿易商や外交官などが居を構えて欧米の文化を日本に伝えた。
彼らは同時にスポーツにも熱心で、神戸では1870年に神戸リガッタ・アンド・アスレティック・倶楽部(KR&AC)というスポーツクラブが結成された(現在も三宮駅近くの磯上公園内にクラブハウスがある)。
ただし、「神戸がフットボール発祥の地」というのは間違いだ。
日本で最初に(外国人たちが)フットボールを行なったのは横浜だった。幕府は京都に近い兵庫(神戸)の開港を延期させたので、神戸が開港したのは1868年だった。一方、横浜はすでに1859年に開港しており、神戸に外国人がやって来るより前から盛んにフットボールが行なわれていた。
いずれにしても、横浜や神戸の居留地では外国人がフットボールに興じていた。
【すばらしい芝生の記憶】
神戸では居留地のすぐ東側、生田川(現在のフラワーロード)沿いに東遊園地という外国人用の公園が造られた。今では毎年、震災関連の追悼行事が行なわれることで有名だが、かつては芝生のグラウンドが設けられており、クリケットやフットボールに使用されていた。すばらしい芝生だったらしい。
初めは外国人専用の公園だったが、その後、日本人チームも使用できるようになり、第2次世界大戦後まで使用されていた。だから、昔から神戸、あるいは関西のサッカー人にとっては美しい芝生の上でプレーすることが普通だったのだ。
御崎サッカー場に美しい芝生が実現したのは、その記憶のせいだったのかもしれない。
なお、神戸にはJSL時代からトップリーグのチームはなかったが、御崎サッカー場はヤンマーディーゼル(セレッソ大阪の前身)の試合に使用された。1981年11月にあの釜本邦茂がJSL通算200ゴールを決めたのも御崎サッカー場での本田技研戦だった。
その後、御崎サッカー場は1995年の大震災で大きな被害を受けたが、2002年W杯を前に全面改築され、現在は「ノエビアスタジアム神戸」となり、王者ヴィッセルのホームとなっている(ACLなどでは「神戸市御崎公園球技場」と呼ばれる)。
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