切れ味鋭いドライブで多くの人を魅了したケビン・ジョンソン photo by Getty ImagesNBAレジェンズ連載18:ケビン・ジョンソンプロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せる…


切れ味鋭いドライブで多くの人を魅了したケビン・ジョンソン

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NBAレジェンズ連載18:ケビン・ジョンソン

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第18回は、1990年代にスピードスターとしてフェニックス・サンズを引っ張ったケビン・ジョンソンを紹介する。

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【サンズへのトレードで才能開花】

「KJ」という愛称で多くのファンに支持されたケビン・ジョンソンは、カリフォルニア州の首都、キングスがフランチャイズを置くサクラメントで生まれた。運動能力の高い少年として育ち、サクラメント高校ではバスケットボールと野球でスター選手として活躍。高校の最終学年で平均32.5点を記録し、カリフォルニア大学バークレーに進学した。

 大学では1年次から先発のポイントガードを務め、3年次と4年次にパシフィック10オールカンファレンス(Pac 10)・ファーストチームに選出される。1984年12月4日のデンバー大学戦では、19得点、10リバウンド、12アシストを記録し、チーム史上初となるトリプルダブルを達成。4年生のシーズンには1試合平均17.2得点、5アシストという数字を残して、1987年のNBAドラフト1巡目7位でクリーブランド・キャバリアーズに指名された。

 しかし、キャブズは1年前にドラフト指名していたマーク・プライスが先発ポイントガードに定着。ジョンソンは1試合平均約20分の出場時間を得ていたものの、プライスから先発の座を奪える状況になかった。シーズン途中の1988年2月28日、ジョンソンはサンズへトレードされることになるが、NBA選手として大きく飛躍するきっかけとなった。

「フェニックスは私に自分らしくあることと、チームを率いる機会を与えてくれたし、私を信じてくれていた。その自信は、選手としての私の成長にとって大きなものだった」と語ったジョンソンは、移籍後3試合目のポートランド・トレイルブレイザーズ戦で16アシスト、次のデンバー・ナゲッツ戦で22得点、8アシストと大活躍。4月16日のシアトル・スーパーソニックス戦では31得点、10リバウンド、14アシストのトリプルダブルで勝利の原動力になった。

 2年目の1988−89シーズンは、サンズで不動の先発ポイントガードとなり、1試合平均20.4得点、12.2アシストを記録。1シーズンの平均で20得点、12アシスト以上は、マジック・ジョンソン(元ロサンゼルス・レイカーズ)、アイザイア・トーマス(元デトロイト・ピストンズ)に続き、史上3人目の快挙だった。リーグのMIP(最も成長した選手)に選ばれただけでなく、レギュラーシーズンのMVP投票で8位のポイント数を獲得し、スター選手への道のりを歩み出したのである。

 3年目に初めてオールスターに選ばれたあと、4年目の開幕戦は1990年11月2日と3日、NBA史上初の海外での開催となったレギュラーシーズンのために来日。東京体育館で行なわれたユタ・ジャズとのゲームでは、初戦で29得点、12アシスト、第2戦で28得点と日本のNBAファンを魅了した。跳躍力とクイックネス、得点力とゲームメイクのうまさを持ったポイントガードとして、ジョンソンはNBAのスター選手へと着実に成長していった。

【王朝ブルズに挑んだ1993年】

 しかし、プレーオフでは、あと一歩のところで勝てないという状態が続いた。ジョンソンにとって初のプレーオフとなった1989年は、カンファレンス決勝進出を果たすもレイカーズに4連敗。翌年はカンファレンス準決勝でレイカーズに4勝1敗と雪辱を果たしたものの、カンファレンス決勝ではNBAファイナルまであと2勝に迫りながらもブレイザーズとのシリーズを落とした。1991年はジャズ相手に1回戦で、1992年もカンファレンス準決勝でブレイザーズに敗れている。

 そんな状況を打破すべく、サンズは1992年6月17日に1対3のトレードでフィラデルフィア・76ersから、リーグを代表するパワーフォワードのチャールズ・バークリーを獲得。バークリーとジョンソンはワンツーパンチを構成し、ふたりを中心にトム・チェンバース、ダン・マーリー、ダニー・エインジら選手層の厚いチームとなったサンズは、開幕から勢いに乗り、NBA最高成績となる62勝20敗でプレーオフに進出した。

 その原動力となったバークリーは、レギュラーシーズンのMVPに選ばれたが、ジョンソンは鼠径部痛症候群の故障によって49試合しか出場できず、平均16.1点、7.8アシストというサンズ移籍以降最低の数字に終わっている。

 しかしジョンソンは、プレーオフに入ると本来の輝きを取り戻した。第8シードのレイカーズ相手に2連敗からの3連勝で1回戦を突破した際には、最終第5戦で24得点、13アシストを記録した。そして、サンアントニオ・スパーズとのカンファレンス準決勝も4勝2敗で制すると、ソニックスとのカンファレンス決勝ではホームコート・アドバンテージを活かしたことと、第7戦でバークリーが44得点と大爆発したことが決め手となり、ジョンソンは悲願のNBAファイナル進出を果たしたのである。

 NBAファイナルでは3連覇がかかっていたシカゴ・ブルズと対戦したが、サンズはホームコート・アドバンテージを手にしながら、フェニックスでの3試合で1勝もできなかった。

「我々は偉大な相手と対戦することになるだろうとわかっていた。マイケル・ジョーダンは絶頂期にあり、ファイナルで彼と対戦できたのは光栄だった」と言うジョンソンは、再延長にもつれ込む激戦となった第3戦で62分間プレーし、25得点、7リバウンド、9アシストでサンズの勝利に大きく貢献。王手をかけられた第5戦でも25得点、8アシストと活躍しシカゴで2勝を挙げる原動力となった。だが、ホームに戻っての第6戦、残り3.9秒でジョン・パクソンに逆転の3ポイントショットを決められ、98対99で敗戦。NBAチャンピオンになるという夢は叶わなかった。

 ジョンソンは、自身のキャリアで最初で最後となったNBAファイナルを、のちにこう振り返っている。

「あの接戦に勝てなかったのは受け入れがたい。我々は全力を尽くしたが、マイケルのような選手やブルズのようなチームと対戦するならば、わずかな差で勝負が決まるのはわかっていたんだが」

【最後までフェニックスで】

 1994年と1995年のプレーオフでは、ともに最終7戦までもつれたカンファレンス準決勝でヒューストン・ロケッツを倒すことができなかった。

 ジョンソンは1994年の第4戦では当時、リーグナンバーワンセンターとして君臨していたアキーム・オラジュワンの上から豪快なダンクを叩き込むなど、ロケッツとのシリーズでは26.7得点(1994年)、27.9点(1995年)と活躍。しかしチームは、1994年がアウェーで2連勝発進、1995年が3勝1敗と王手をかけて優位に立ちながら、いずれも逆転を許して負けたのである。特に第5戦から3連敗を喫した1995年の敗北は、ジョンソンにとって非常に悔いの残る結果になった。

「あの数年間は優勝できると信じていたし、そのとおりになっていた。ロケッツとのシリーズで立て続けにあのような負け方をしたことは、チャンスを逃したように感じた」

 ジョンソンは1996年から3年連続でプレーオフ1回戦を突破できず、1998年に現役引退を決断した。ところが2000年3月には、サンズの先発ポイントガードのジェイソン・キッドが戦線離脱したことから、元サンズのヘッドコーチで親交の深かったコットン・フィッツシモンズの要望に応えて現役復帰。プレーオフ1回戦でスパーズを3勝1敗で倒すのに貢献したが、カンファレンス準決勝でレイカーズに1勝4敗で敗れたあと、ジョンソンは12シーズン過ごしたNBAキャリアに終止符を打った。

「幸運にもフェニックスのすばらしい組織でプレーし、長きにわたるキャリアを積むことができた。振り返ってみても、後悔はない。コート上で全力を尽くしたんだ」

 カリフォルニア大学バークレーで政治学を専攻し、NBA選手になってからセント・ホープアカデミーを設立するなど、ジョンソンは教育改革に力を入れていた。現役引退後は、元ニューヨーク・ニックスのビル・ブラッドリーと同じく、NBAオールスターという実績を持つ選手から政治家に転身。2008年5月にサクラメントの市長選出馬を決断し、決選投票で57.4%の得票数を得たことで当選。2012年にも再選し、市長を8年間務めた。市長退任後のジョンソンは、政治とほとんど関わらなくなったが、地域発展の活動を継続する人生を送っている。

【Profile】ケビン・ジョンソン(Kevin Johnson)/1966年3月4日生まれ、アメリカ・カリフォルニア州出身。1987年NBAドラフト1巡目7位指名。
●NBA所属歴:クリーブランド・キャバリアーズ(1987-88)―フェニックス・サンズ(1987-88途〜1996-97、1997-98、1999-2000)
●NBAファイナル進出1回(1993)/MIP1回(1989)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)