プロレス界のスーパースター武藤敬司(60)が2月21日に東京ドームでの内藤哲也戦で引退する。新日本プロレスに入門した1984年10月5日のデビューから全日本プロレス、WRESTLE―1、プロレスリング・ノアと渡り歩き常にトップを驀進したカリスマ。さらに化身のグレート・ムタでは全米でトップヒールを極めるなど世界で絶大な人気を獲得した。スポーツ報知では38年4か月に及ぶプロレス人生を「完全版さよならムーンサルトプレス伝説」と題し14日から連載中。12回目は、必殺技「ムーンサルトプレス」誕生秘話の前編。また、報知では2月18日(予定)にタブロイド新聞「武藤敬司 引退特別号」を発売します。(取材・構成 福留 崇広)

 84年4月の新日本プロレス入門時から卓越した才能を先輩レスラー、取材記者に絶賛されていた武藤。その輝きをファンへ鮮烈な印象を与えたのが必殺技「ムーンサルトプレス」だった。

 トップロープからバック転して敵をボディプレスする豪快で華麗な技を武藤が初めて試合で使ったのは、デビューから約5か月を経た1985年3月1日、「ビッグファイトシリーズ第一弾」開幕戦の後楽園ホールだった。後藤達俊とタッグを組んでブラック・キャット、金秀洪と対戦した武藤は、キャットへ初めて「月面水爆」を浴びせた。

 ムーンサルトプレスを開発した秘話と初公開時の思いを武藤は、今月12日に徳間書店から刊行されたノンフィクション「【完全版】さよならムーンサルトプレス 武藤敬司「引退」までの全記録」で明かしている。本稿では、その技の命名に至る経緯を紹介したい。

 日本人レスラーで初めて「ムーンサルトプレス」を披露したレスラーは、1977年に新日本でデビューしたジョージ高野とされている。後に覆面レスラー「ザ・コブラ」に変身する高野がどの試合で「ムーンサルト」を初公開したかは、定かではないが、トップロープあるいはセカンドロープからバック転して圧殺する空中殺法を繰り出していたという。

 この技がファンに強烈な印象を与えたのが初代タイガーマスクだった。新日本の若手レスラーだった佐山聡がデビュー5年目の1981年4月23日に蔵前国技館でのダイナマイト・キッド戦でタイガーマスクへ変身したマスクマンは、驚異的な身体能力とキックを軸にした斬新なスタイルで国民的な人気を獲得した。

 そして、82年5月26日の大阪府立体育会館でのブラック・タイガー戦で「ムーンサルトプレス」を初めて公開した。ただ、初代虎が披露した「ムーンサルトプレス」は武藤のようなバック転式ではなく空中で体を旋回させる技だった。

 一方で初代虎が公開した時、この技は当時、毎週金曜夜8時にテレビ朝日「ワールドプロレスリング」で実況した古舘伊知郎アナウンサーは主に「ラウンディングボディプレス」と呼び、プロレス報道の老舗で夕刊紙の「東京スポーツ」も同じ呼び方で報じていた。

 ところが、当時「月刊ゴング」の記者だった小林和朋さんが唯一、「ムーンサルトプレス」と命名し報道したのだ。小林さんは、72年のミュンヘン五輪で体操の塚原光男が金メダルを獲得した鉄棒での「ムーンサルト」にヒントを得て、初代虎の新たな空中殺法を「ムーンサルトプレス」と名付けたのだ。

 それから約3年後に武藤が同じ技を繰り出した時も「ムーンサルトプレス」と小林さんはゴング誌で報じ続けた。和名の「月面水爆」も小林さんの命名だった。しかし、テレ朝、東スポなど多くの媒体は90年代中盤まで「ラウンディングボディプレス」と報道していた。つまり武藤の必殺技は「ムーンサルトプレス」と「ラウンディングボディプレス」のいわば“ダブルスタンダード”報じられ続けたのだ。

 そして、今では「ムーンサルトプレス」に統一されファンも呼び、マスコミも報じている。武藤が舞う華麗な技が「ムーンサルトプレス」と「ラウンディングボディプレス」のどちらの方がイメージ、語感、響き…すべてにおいてスマートかと言えば圧倒的に「ムーンサルトプレス」だとファンが判定した結果だった。

 命名した小林さんは今、ヤングライオン時代の武藤の「ムーンサルトプレス」をこう振り返る。

 「高さが異常に高かったことを覚えています。それは、初代タイガーマスクのムーンサルトとは全然違うインパクトがありました」

 当時、強烈な印象を与えた「ムーンサルトプレス」がある。

 「試合ははっきりとは覚えていませんが、確か後楽園ホールのタッグマッチで武藤と山田(恵一)が組んで武藤がムーンサルト、山田がとシューティングスタープレスを同時に決めたことがありました。若手の試合でしたが、ファンの間ですごい話題を集めたました」

 ムーンサルトプレスでさらなる脚光を浴びた武藤。次回は先輩レスラーが当時の秘話を明かす。(続く)